2016年06月05日

流通品価格と末端価格

モノの価格は、最終消費者に渡る前まではすべて流通品価格でなければなりません。普通に商取引に関わっている人の世界では当たり前のことなのですが、最終消費者、つまり最後に渡って消費する人に辿り着く直前でなければ、そもそも末端価格ともいわないし末端価格を付けてもいけない、のです。ここでは特に交易シミュレーションなどで試した際にモノの中間価格、つまり流通価格と末端価格はどうなっているのか、という点で考えた場合で勘案していますが、とにかくモノの最終消費者に渡るまでの中間価格は、全部流通価格でなければなりません。流通価格とはなんぞや、といいますとモノの流通に中間業者がある程度入ることを前提として、そこを流れる時点でのモノの中間価格は、すべて中間マージン(流通実費用)の存在を前提としたものでなければなりません。現代の日本では中間業者の存在が時には悪であるかのように語られることもありますが、そんなものはとんでもありません。実際、この稿では中世・近世以来の交易や貿易、あるいはそのシミュレーションの例で語っていますがそもそも大量の交易品の流通そのものに、かなりのコストがかかるのに中間業者がまるで存在しないような語り口で中間マージンを取り過ぎる奴が悪い、のような半ば悪口の批判がなされるのはかなり間違っています。確かに、今の日本ではある種類の物品で中間マージンがかかり過ぎるのはむしろ組織的問題や官僚制度を始めとする腐敗や利権の癒着などが多いに関わっていることは確かです。ただ、この問題の本質としてはそもそもある程度大量に物品を流通させるというその産業・社会システム、あるいはその体質や仕組みに問題があるのであって、実際その社会システムの下で動く流通あるいは中間業者はコストがかかって当たり前なのでむしろ何も悪くないのです。今の日本でいう中間〜がかかりすぎるは組織的利権の癒着的問題がそもそも根底にあって、中間マージンがかかり過ぎるのをただ流通業者のせいにするのでは余りにもお門違いの文句だ、と言わざるを得ないでしょう。中間業者にコストがかかるのは今の日本でも同じですし、第一中間費用絡みで本当に儲けているのはCMなどでよく出るような大企業です。現代日本での中間費用絡みで儲ける仕組みというのはそもそも原料の生産(あるいは仕入れ)から最終商品まで一気にひとつのグループ内でやってしまうからであって、それは利権というよりもむしろ大手であって、不正うんぬんよりもむしろ単純に投資の仕方と儲け方が上手い、というだけの話なのです。なので先の問題を現代日本に解を求めるのなら大手企業うんぬんを批判するよりもむしろ協会や組合などの官僚がらみの癒着制度であって、そもそもそんじょそこらの近所のおじさんならまだしも、批判する先が間違っているともいえます。とにかく、この問題は単純に元をたどれば中間業者にはある程度お金がかかるものだ、というのが前提にあって、生産も仕入れもまったくやっていない最終消費者はそれに関してとやかく批判するのはやめたほうがいい、というのが現状です。もし、その現状に不満や問題を感じるのなら協議会や組合を作って対抗すべきで、まるでマスコミに踊らされているかのように市井でそれを話し合うのは根本的に間違っている、といえるでしょう。まぁ、それ自体が日本の場合はマスコミという官僚主導のごまかしだ、というようにも思えるのですが、とにかく中間マージンがかかるから、といって全面的に中間業者のせいにするのは間違いで、むしろある程度中間費用というものはかかるものだ、ということをまず頭に叩き込んでおかなければいけないことだ、ということは覚えておいてください。その上で、中間業者と中間費用に話を戻しますが、流通費用というのは中間業者による中間マージンを前提としたその経路上での値段を指しているのですが、この稿での主張はそもそも最終消費者に渡るまでの中間価格は、流通価格でなければならない、ということでした。中間費用前提でなければならない、ということですが、これには理由がもうひとつあります。そもそも、数学的にいえば中間費用前提で流通価格にしている、ということは最終消費者に渡るまでに経由する必要や中間業者に払うコスト前提で価格を調整している、ということになるのである程度適正な価格で最終消費者まで渡す、という一種のバイアスがかかることになります。もしこれが中間費用を取り過ぎる、つまり中間価格、流通価格が高くなりすぎる、ようだと当然末端消費者に行き渡るまでにはバカ高くなってしまうので、モノを間に入って捌く中間業者のようなものは中間価格、その時点での流通価格が高くなり過ぎないように(最低限のコストはかかりますから低くなるようなことはない)調整して適当な価格で流していればいいことになります。商取引とは多くの人や組織が間に介在し当然最終的には数多くの人に物品が行き渡るものでもありますから当然どの手段においても取り過ぎていいところなどどこにもなく、むしろ払うところは払って費用を取るところは取る、という実際に関わっている人なら当たり前のようなことですが、それすら守らなければまっとうにやってはいけない、というようなところを実経験がなければ分からない、というところに人間の脆さを感じつつ、この稿は終わりにしたいと思います。お読みいただきどうもありがとうございました。
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2016年05月27日

価格の物的平衡と“同意的”平均価格

価格の物的平衡とはここではある物品の値段そのものがそれ相応だと思われる値段で一定に固定され他所で取引される場合にも同様の算出方法で一定の価格範囲で取引されるときの、主に物基準で平衡、つまり平均価格が決まるという事象のことを指しています。一方、同意的平均価格、とはそれら論理的にはある一定の範囲で物的平衡で価格が決まっているある物品の値段を、経済的にいうコミットメント(事前同意)で商取引者両者のもとで確約してしまおう、という動き及びそれらの元で、事前に決まっているある一定の範囲内における物品の平均価格、のことを指しています。つまり、この稿で何が言いたいか、というとある一定の範囲内、つまり例えば同じ年代の近しい地域内においては主に流通する物品の価格はそれら物的平衡、つまり物そのものの本来持っている価値によって決められ、それらが滞りなく周辺地域内外で取引されるように商取引者同士が事前協議のもと、物品の価格に同意というコミットメントをすることによって、安定的に取引をする、という意思決定を行っている、ということです。また、それらの行動によって自分たちの商取引における地位を盤石にすることによって、中長期的な安定的利益を得ている、ということなのです。物品の物的平衡とは、前述しましたが物基準である物品そのものの市場における値段が一定の範囲で収まる、いわゆる平均価格が物的に安定する、という状況を指しており、また、同意的平均価格としたのはそれら物的平衡である程度値段の決まるものを安定的に取引するために商取引者同士が予めの事前協議でそれら物的平衡の平均価格に同意している、という事象あるいはそれらによる平均価格のことを指しています。つまり、物品の値段なんて最初っから決まっているし、それらが事前協議されていれば売る商取引者側でもなんの問題なくやりくりが行われていく、ということを指しています。これらの過程を3つの言葉にまとめていくと、つまりこうなります。まず最初に、commence、事前協議ですね、それから、agree、同意ですね。まずそこで価格が決まっていることが同意されます。それから、competition、まぁ名ばかりの価格競争ですがそれら見せかけ、の競争によって値段がある一定の顧客の納得する範囲に収まっている、と勘違いさせます。まぁ、decepticon(前同意的破壊)とも呼んでもいいのかもしれませんが、とにかく物品の値段というものはある一定の範囲内ではその物の価値が一定的であるとすれば平均価格に収まる、というのが価格の物的平衡でそれらの平均価格が、当然同業者の同意のもと決まっている、ということなのです。つまり、前近代的な商取引の時代から人間が社会の形成を前提として物品の取引を始めた場合、物品の価格がそれそのものの価値で一定の平均価格内に収まり、かつそれらが同業商取引者の間で事前協議のもとそれらの平均価格に収まるよう念のため同意しているだけ、ということなのです。これらのことからすると、そもそもよくカルテル問題で言われるような「以前から居座る同業者集団が、物の値段を都合のいいように決めている」のではなく、そもそも物の値段とはそれそのものの本来の価値で決まるものであり、それらが物的平衡としてそのものの平均価格に反映される、というだけの構図なのです。なので、もし、ある業種に参入しようと思うのなら、当然その前から居座っている同業者と上手くやっていくことが必要で、できるだけ細い利益を目立たないように中長期的に吸い上げる、かつ金融的に安定した構造を創り出す必要が出てくるのです。自分立ちが参入するから、といって古い業界を壊すのはむしろ余計以外の何者でもなく、むしろ、壊したとしてももう一回同じような仕組みで新たな利権的支配構造が造り上げられて終わり、というのがオチでしょう。商取引で重要なのは、まず物品を取引するという商取引の構造そのものが、その物の価値が平均価格に反映される、物的平衡とそれら平均価格を安定的に扱うための、事前協議と同意の元で成り立っているということを知っておくべき、ということなのです。まぁ、これだけバラしてしまえば物事なんて全部仕組みなんだな、ということは誰でも十分にお分かりいただけたか、と思いますが今回はこれだけにしておきます。ちなみに、動的平衡、というものもあり、これを特に価格についていうときは、その物品が情報的にメタに扱われる場合に、株や債券、金融商品なんかがそうですね、それらはその物の存在自体で動的に平均価格が頻繁に変動するものである、つまり取引そのもので値段が頻繁に変動するものである、ということを指しています。まぁ、物の取引そのものが値段を変動させる、といういわゆる金融取引という言葉そのものにぴったりの概念なのですが、結局は市場をいじくる側の感情に大きく働きかけて値段の変動という形で作用するものなので、まぁ、物的平衡に比べれば商取引自体ではさほど加味するほどのものでもない、というようにも思います。前述のとおり、買い売り手側の感情により強く作用して値段が変動するものなので、まぁまっとうな商取引に比べればよほどやらないほうがいいもの、ということは覚えておいて損ではないでしょうね。つまり、相場は、事前から決まっているもの、なのです。
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2016年05月25日

シミュレーションと実践の差分―歴史を知りその状況を動かすには

シミュレーションと実践の差分、ということですが今日はシミュレーションゲームが如何にして活用できるか、というそんなところです。シミュレーションといってもまぁタイトルからみて歴史のことだとほとんど分かっているかと思いますが、要は歴史シミュレーションゲームが如何にして歴史の考証やゲーム的分析に使えるのか、というところです。まず、始めに整理しておくとシミュレーションおよびシミュレーションゲームというものは現実に存在した関数を仮想で再現したもの、及びそれが断続的に再生可能、再生操作可能だ、というものについて主に指しているように思います。つまり、ROMのように連続再生可能でありながら、RAMのように再生中に書き換え可能でなおかつ、書き換えた内容に応じてある一定の関数のような法則に従って後続の内容が変化する、これがごく機械的、関数的に見た場合の歴史シミュレーションゲーム、あるいはごくそのもののシミュレーションとして扱った場合のゲーム、そのものなのです。というと少し分かりにくいかもしれませんが、まぁ、要はある程度の記憶媒体でありながら連続再生中に書き換え可能でしかも一定の法則性に従ってその後の展開が書き換えられて行く……これが歴史シミュレーションゲームを関数的に見たものです。しかしながらこれではちょっと分かりにくいかもしれませんが、そこはおいておくとして重要なのは再生媒体でありがら常時書き換え可能だ、という点です。というかシミュレーションゲームなのでプレイした傍から展開が俄然変わっていくことになりますが、重要なのはプレイした傍から書き換え可能だ、という点です。ここで例え話ですが、例えば歴史シミュレーションゲームをプレイして相当の努力で史実とは120°ぐらい違う展開に書き換えたものをセーブしたとして、そのセーブデータ(の中の「史実」)と実際の歴史とは、当然出口から入ってもはたまた入口から入っても到底違うものだ、ということになります。これは当たり前ですが実はここが重要でどちらから入っても歴史シミュレーションは史実ではないのに存在し得るのに、史実という実際の歴史の間に挟んでみてもそう大してパッと見では違和感が全く感じられない、という点になります。これは連続再生可能でありながら、同時にその最中に常時書き換え可能である、ということの証でもありますが、問題はそういうところではなく、歴史シミュレーションゲームという仮想の媒体そのもので、一個の仮想空間として独立している、という点にあります。まぁ、仮想空間として独立しているかどうか、とか仮想現実との違いは、という点については「〜物理法則に忠実でないといけないのか」の稿を見ていただければ分かるかと思いますのでここは割愛するとして、重要なのは、要は一個の仮想空間として歴史シミュレーションゲーム一個そのものが独立している、という点です。これはどういうことを表しているか、というと「史実」という一応実際に記憶されているだけの「実際の」歴史が存在するわけですが、それと連続するものであるにも関わらず歴史シミュレーションゲーム、という一個の仮想空間として間に挟まれても連続可能で、しかもなおかつ再生中に書き換え可能だ、という点です。これはつまり、「史実」とは切り離された歴史でありながら、そこでもし正確な関数を打ち出せば(辿り着けば)現実にもその後の歴史に応用可能な「相応の」「史実」を作り出すことができるのです。まぁ、早い話歴史シミュレーションゲームという名前そのままの通りに「歴史は変えられなくても」「その後の望ましい歴史を創り出す」ことができるわけで、連続再生中に書き換え可能だ、というのはこの点で難しいことを抜きにすると「シミュレーションで歴史を考証することができる」、ということなのです。たったこれだけの結論、になってしまいましたが「望ましいもの(ここでは歴史)」を創り出す、ということは考証することでその後の在り得る、かつ望ましい歴史を仮定付ける、ということを指しており、考証とは常に仮想空間にて行われることである、ということの証左でもあるわけです。まぁ、これでゲームにしろ仮想空間で歴史なりなんなり考証することの大切さ、重要さが分かっていただけた、かと思いますが重要なのは、「何が変わったのか」、ではなく「何が残ったのか(実際の歴史にそこで戻るのではなく関数的に何が残ったのか、ということ)、考証の結果何がどうなって何が可能なのか」、という点なのです。歴史にしろ時間を遡ることは基本的にできませんから、遡って考証しなおすにはどうしても仮想空間が必要になるわけです。そういった媒体が歴史シミュレーションゲームであり、またその他一般的にいうシミュレーションゲーム、あるいはゲームなどの役割である、ということです。
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2016年05月24日

風・水、磁力線その他諸々を操る錬成陣・魔法陣

風、水とはいわゆる火・大地などの四大元素というものですが、まず初めにこの世のほぼすべての要素は風・水を経由して存在している、ということを言っておかなければなりません。また、火や大地の要素も風・水を通じて生成・変成するので水と緑の惑星・地球とはよく言ったものですが、その文字通り風・水が、この地球上のこの世のすべてのものを形作っているのです。しかもそれは生命そのものを形作るのにほぼすべてにといっていいほど存在あるいは経由しており、要は生命のエネルギー=で風・水の要素なのです。ここまでの説明はさておいて、今回の稿の本題に入っていきますが、風・水というのはエネルギーでも生命により近いほうのエネルギーだということは今説明したばかりですが、問題の本題はここからです。錬金術でもそうですが魔法などを操るときに(特にゲームやアニメ、漫画などで)あるいは錬金術や魔法を想像するときに、錬成陣、あるいは魔法陣のようなものを連想することが多くないですか?六角形や三角形、八角形その他ルーン文字のような記号などで、構成されるアレです。アレといっても、全く空想の産物などではなく、実際に錬金術や魔術・魔法の研究がなされた際にすべて実在していたものです。まぁ、それもそのはずで錬成陣、魔法陣と書きましたが、適当な和訳を探せば魔紋、というもので魔法が起こる際に(まぁ、錬金術も半分科学で半分魔法のようなものですが)力、エネルギーの流れが流れる経路、あるいは動きを表していて、その図形を辿って行ってそこから使う魔法をイメージすれば自然な流れで魔法が起こる、というものが魔法陣、あるいは錬成陣に代表される魔紋というものです。まぁ、魔法陣は今言った魔法の流れを指し示した図形で、魔紋そのままというのもうなずけるかと思いますが、錬成陣とはその化学物質の反応や生成経路・経緯、それから反応後の物質などをルーン文字その他諸々の図形などを使って、図形的に「分かりやすく」説明したものです。分かりやすく、といってもその手の図形や文字を認識理解できないとそもそも「分からない」ということになってしまうのですが、まぁそこは錬金術や魔法・魔術をちょっとでも聞きかじったことのある者なら理解できる、ということにしておきましょう。実際、魔紋に使われるような図形やルーン文字などは魔法のエネルギーの流れなどを直観的に書き表していることが多いですから、(もちろんそれらの多く、いやほとんどはある程度の長い年月をかけてじっくりと練り合わされてきたもの、なのです。といっても、結局は根源的に辿れば最初ぐらいに思いついた人が直観的に書いている場合が多い)その魔法や錬金術を直観的に理解できる人であればそう理解そのものは難しくはない、はずです。まぁ、そんなことはどうでもいいですから置いておいて、早速結論に行きましょう。して、その結論とは錬成陣・魔法陣などの魔紋は、どちらの場合も早い話エネルギーを扱って操っているのですが、そのエネルギーとはおそらく磁力の流れ、つまり、錬成陣などの魔紋はその場の磁力線を操っている、のです。自然界のエネルギーの流れを単にその流れの線として見た場合に大きく二つくらいに分けられるのか、と思いますが、ひとつはイオンの流れ、です。元素などのうち単体で存在し得る物質から電離して浮遊したり分離しているものがいわゆるイオン、というものだと思うのですが、早い話、電子的な物質の流れ、動きですね、これらの流れがイオン的な流れ、です。ただ、これらイオンの流れはどちらかというと地球上では磁力、磁場の影響を強く受けるので、二つに分けられる、といいましたが結局は磁力線、磁場の影響が大きい、のです。というわけで、エネルギーの影響の大きさからいえば地球上では磁場が最も強いことになるので(太陽からのエネルギーは磁場で相殺されているのでここでは加味しない)その磁場さえ操ってしまえばといってもその場限りで操れるのはその場の磁場あるいは磁力線だけだったりするので、結局は魔紋、魔法陣や錬成陣などは大きくいえば磁力線を操っている、のです。最初に風と水、とでてきましたが、よく考えればこの二つの文字をくっつければ風水、なのでお馴染みの風水、ですね。結局、古来から存在するような風水でさえも、結局は四大元素のうちの、風と水、を表していたのです。まぁ、早い話古代の人々は自然や人間の生活を直視・観察するうちに生命エネルギーの尊さに気付いたのだ、と思いますが、それはそれでさておいて、ですね今回の話題は錬成陣、魔法陣などの、魔紋、なわけです。その魔紋ですが、例えば魔法などを使う儀式を実際にかあるいは写真で見たことのある方なら分かると思いますが、魔法陣の各頂点にはそれぞれ円があって魔法にもよりますが、そこに色々な自然物を置くことがあるのです。自然物にはそれぞれ大小の磁力線が流れています、からその磁力線の流れを制御すれば魔法のような現象を引き起こす、ことも可能になるわけです。人間も同じ、で脳が非常に高度に発達していますから、そこを経由して自分の周りの磁場をある程度は好きなように変化させることができるわけです。もちろん、その事実に気付いていない人は、無意識にやっていることになるのかと思うのですが、とにかく脳がある一定以上発達していれば(もっと厳密にいえば脳はそれを知覚する器官、なのでほぼ万物がその場の磁場に影響を及ぼしている、ともいえるし逆にいえば脳はそれに気付くか気付かないか、の機能上の違いを表している、だけなのです。)磁力線の変化を、あるいはその場限りの磁場をある程度は自由に操れる、ことになるのです。その術法の究極ともいえるものが魔法陣・錬成陣で、古来の人々は「エネルギーの流れ」というふうに解釈していたようにも思いますが、とにかく、そのエネルギーの流れ、とは早い話、端的な話その場の磁力線の動き、あるいは磁場を表していた、のです。エネルギーはある一定の場であれば有限なので、大きい流れのエネルギーにより小さい流れのエネルギーが包摂されるわけ、ですから魔紋=磁場の流れ、というように解釈して問題ないと思いますが、とにかくそれらはエネルギーの流れを表していて、錬成陣・錬金術などの魔紋はそれらその場限りの磁場を操るための技術、だったりするのです。ということは、魔紋さえ書けば魔法が使えるようにも思えますが、それは早とちりというもので、早い話「鋼の錬金術師」のようになってしまいます(笑)魔法にしろ、錬金術にしろ使うにはまずそれそのものの根本原理、というものを理解している必要があり、それをやらないと必ず仕返しを食らう、というのが等価交換の原理、であり自然界の摂理、というのが錬金術の最たる教え、だというように思います。まあ、なんでも素人裸足で行えば当然痛い目見る、というのは当たり前、といえば当たり前なのですが、錬金術や魔法はそれそのもので扱うエネルギーや事物が非常に大きいので、それなりに覚悟して使わないといけない、ということなのですね。逆にいえば、それら根本原理を理解し、より自然や万物に流れるエネルギーについて知識と理解を深めていけば、必ずやいつかは偉大な発見をできる、ということは間違いないのです。根本原理を守る、という一見単純な教えというか考え方、のようにも思えますが、本来自然の中で生きる、ということはこのことを表していて、根本原理を守らなければ、必ずいつかどこかで何らかの象(かたち)で痛い目にあう、という教えは万物に流れるエネルギー、というものを前提にした考え方である、ということはいえる、と思います。しかしながら、基本的には自然に即して生きていれば何ら問題ないので、まぁ、要は人間本来の姿を見失うことなかれ、というところですかね。お読みいただきありがとうございました。また感想・質問等ある場合はコメント欄によろしく書き込んでいただけるとうれしいかと思います。それでは、今日はこのへんで。
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2016年05月18日

仮想空間が物理法則に忠実でないといけない理由

仮想空間とは、まぁ要はオンラインゲームが代表的なわけですが、何が言いたいかというと基本的に、オンラインゲームのような仮想空間は、それ単体で仮想空間として存在するためには、現実の空間の物理法則にほぼ100%忠実でなければならない、ということです。分かりやすくいうと、現実の物理法則から外れることが、ほんのちょっとでもあるともうその空間は完璧な仮想空間とは呼べなくなってしまう、ということなのですが、ここでいう完璧な仮想空間とは何か、といいますとそれをプレイする人間が100%仮想のものとして、言い換えれば完璧な仮想空間=仮想現実として受け入れられる空間のことをいうのです。まぁ、まとめてしまえば完璧な仮想空間=完璧な仮想現実≒完璧なその空間においての現実、ということが言えるわけですが、まぁ、要は完璧な仮想空間であれば人間がそれをプレイするのにおいて仮想現実として臨場感を維持できるのであるし、逆にいえばちょっとでも現実の物理法則に背くような部分(物理空間では存在しえないような大きさの生物や魔法など)が存在してしまうと、仮想空間´つまりI(if)´としては成立するものの、そもそも完璧な仮想現実≒その空間においての現実としてはプレイする側の人間が受け入れられなくなってしまうのです。確かにアーケード型のオンラインゲームならそれで済むのですが、仮想現実としてプレイしようと思うと限定的な仮想現実的空間では足りなくなってしまうので(仮想現実空間が維持できなくなってしまう理由については先述の通り)、ちょっとでも物理法則に背くようなものがあるともれなく仮想現実空間´(IR´)となってしまうのです。つまり、´が付くということは仮定的な仮想現実とでしか受け入れられなくなる、という意味で、例えば先述のとおりアーケード型のオンラインゲーム(基本無料などで対戦などのマッチングだけオンラインになるもの)であればそもそも元々が限定的な仮想空間としか認識していないので仮想現実´でも問題ないのですが、これが月額有料などのオンラインゲームになると結構大変で例えばこの手のゲームを求めるひとは大抵の場合居場所を見つけるためかあるいは仮想空間でシミュレーションをするためにしろ、ゲームに仮想空間としての現実が成り立っている、必要があるのです。ところが、その設定された仮想空間に現実の物理法則とちょっとでも乖離している部分があると、結局仮想現実として認識するには臨場感を維持し続けることができませんから、仮想空間としては認識不可能なのです。それでも、先述のとおり限定的な仮想空間としてならゲームの目的(タスク)があればプレイ可能なのですが、それでも仮想現実の空間として認識し続けるにはそもそも現実の物理法則と乖離する部分があってはならない、のです。このポイントとしては仮想現実としての空間IRがそもそも断続的な空間かどうか、というのが一点あり、例え法則的に不完全なIR´だったとしても断片的であれば限定された仮想空間としてそもそもプレイ可能でもあるし、逆に物理法則にちょっとでも忠実でなければ断続的な仮想空間としてはプレイ不可能、なのです。理由については先述のとおり臨場感を維持しきれないから、でありこの場合完璧な仮想空間(仮想現実)IRとしてプレイするには現実の物理法則にそもそも逆らう部分があってはならない、というのが実情です。ここで重要なのがその仮想空間が断続的なものかどうか、というポイントで、例えば簡単にまとめれば完璧な仮想現実としてあろうとするのなら物理法則に忠実なもので断続的なものに成り得る、ということでもあるし、逆にちょっとでも物理法則に背いてリアルでない部分があるとするのならば、それは単なるI´でそもそも仮想現実IRにすら成り得ない、ということなのです。まぁ、それでも先述したとおり限定的な仮想空間としてなら十分ゲームとしてプレイ可能なのですが、そもそも仮想空間に対する人間の欲求からして、完璧な仮想空間がなければ到底技術的に文明が成熟したとしても満足いくはずもなく、また、どちらにしろ機能的な面での意味での仮想空間は人間にとってもすごく重要なので、仮想空間というものは非常に重要なものなのです。どういうことか、というと結局は人間は完璧な仮想現実IRを求める、という意味で、これは単純に物理世界Phにしろ物理法則Phlに則った世界にしろ、仮想空間としての仮想現実IRがあると非常に物理的に都合がいい、のです。結局、人間にとってのフィールドはこの地球上にしかありませんし、ある一定以上人口が増えれば当然その一人一人の活動の空間としては狭くなってきてしまいます。となるとどういうことが必要になるのか、というとそのうちの何人かは仮想現実に引っ越す必要が出てくるのであって、(言っておきますがもともと人間の脳の空間、情報空間は仮想空間的なものです)そのためには先述のとおり完璧な仮想空間としての仮想現実が必要になってくるわけです。映画「マトリックス」のように物理的な体をどうするのか、という点については置いておいてこの地球上の人口がある程度増えてくるとどうしてもそのうちの何十%かは仮想現実に引っ越す必要が出てくる、のです。もともと人間の情報空間は仮想空間なのですが、それは物理的なはなしで実際は体は物理空間にいる、という前提のような認識が成り立っています。しかしながら、人間のファクトはほとんどが情報空間の中で行われており、実際に現実の空間として認識しているようなものでもほとんどすべてが脳の中で処理された情報だったりします。ということは元々人間は仮想空間の中で済んでいるようなものでもあり、仮想現実に引っ越すというはなしは物理的には実はさほど難しくないはなしだったり、します。また、人口面での問題などどちらにしろそういう流れにある傾向にあります。となると、人間が仮想現実に引っ越すのは実はもう目の前のような話でもあり、実際にVR(可視現実)のような機器も発売されるという予定も出回っていますし、それに人間として都合がいいのなら、人間のうちの何十%かは実際にほとんど仮想現実に引っ越すようになることが見えきっています。まぁ、そのためにはもちろん現実の物理法則に忠実な仮想空間が必要になってきますし、そうでなければその技術も実現することは不可能であろう、ということが容易に想像できます。また、そのような需要が出てくる傾向とそのための技術という二面が揃っていますから、それが現実になる日はそう遠くない話、だったります。まぁ、今回の稿では主にその仮想空間と仮想現実、それから物理法則がどのように関わりあっているのか、ということを解説するのが主な目的だったわけですから、その現実が今後どのようになっていくのか、という最後は希望観測的な話に終始しようと思いますが、とにかく、まず第一には仮想現実とは現実に忠実な物理法則によって成り立っている、ということともう一つは限定的な仮想空間であれば今までは断片的な現実というものとして存在可能であったものが人間の仮想空間に対する欲求から間違いなく現実の物理法則に忠実な、完璧な仮想空間としての仮想現実しか今後存在できなくなっていくだろう、ということは現段階でもいえるのではないか、とのように思います。また、最後には希望観測的な話を、と書きましたので付け足しておきますが、現実に仮想空間、あるいは仮想現実がどうなるのか、にしろ最後にものをいうのは、その空間でその人間がどういうふうに生きるのか、またあるいはどのような心持ちで生きるのか、というところに終始するのではないか、ということです。長くなってしまいましたが、最後にもうひとつ、マスター・ヨーダのような言葉を。現実とは自分がどのようにあるのかという想い方次第で、在り方が変わるものなのだ、と。〈終〉
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