2016年07月06日

ゲームとゲームにおけるそのストーリーの重要性

ゲームとゲームにおけるストーリーの重要性についてこれからお伝えしていきたいと思うのですが、まず、始めに簡単に説明しておきますと、ゲームとは物事の枠組みのことで、経済・政治、スポーツ、歴史上の戦い、なんでもそうですね数学的にはゲーム理論といってモノごとのうち形式のあるものはすべて、ゲームと呼びます。それを論理的に分析したものがゲーム理論、なのですがストーリーとは、その形式のゲームが連続したものを一般的にはストーリーといいます。つまり、ゲームが連続したものがストーリーで、小説や物語なんかは徹底的に細部まで分解していくとひとつひとつのゲームの積み重なり、とも捉えることができるわけです。なので物語や小説を書いている人は、論理的にいって基本的にゲームを組み上げる、論理的に構築する能力が非常に長けている、ともいえるのですが(ちなみによくいう一見あやふやな文章を書いてまったく論理的にストーリーが見えてこない小説を書く人を見かける、というのもありますが、あれはあえて論理的にいうならば書いている本人にしか分からないレベルの抽象度にまとまっていて、一見しただけでは到底解読不可能だ、というだけの話なのです)それはゲーム(電子的なものの場合)においてシナリオを書いたりゲームを作る人も同じで、同様にゲームを構築する能力ひいてはその連続性如何ですからストーリーを論理的に構築する能力に非常に長けている、とも言えるのです。ゲームやストーリーを書いたり作ったりする人はそもそもゲームを細部まで分解して、さらに構築する能力に非常に長けている、ということでもありますがこの世界の日常のほとんどがゲームで構築されていることを前提とすると、ゲームやさらにその連続性であるストーリーを構築する能力に長けている、ということはこの世界で問題を解決する能力、あるいは新しい問題を見つけたり物事の新たな可能性を発見したりすることに非常に優れている、ということにもなります。まぁ、いうなれば政治家と科学者、それから哲学者というお互いに相反するものを一気に両立させてしまうことにもなるのですが、要は重要なのはゲームやゲーム理論、それからストーリーというものがこの世界の物事において非常に重要なものである、ということであり大きなファクトでもある、ということでもあるのです。陰謀や災害は個人一人の力だけでは止めづらいものでもありますがゲームの仕組みを十分理解すればそれらについて新たに問題を発見したりまた新しい可能性を見つけることによってこの世界を変えていったりすることも可能になるわけです。問題を見つけていって新たに課題を提示し、それらを解決していくことが、この世界の基本的な政治のやり方でもありこの世界を変えていく唯一の方法でもあるわけなのですが、とにかくゲームの仕組みを理解することがまずは重要で、それには実際に問題でもスポーツでもとにかくゲームのパターンを熟すことが重要になってくるのですが、そうしてゲームの構造や仕組みについて理解する、あるいはひいてはそれの連続性でストーリーについても理解を深めることができれば、たった一人の力が起点でもこの世界を裕に変えていくことのできるそんな能力が獲得できるのです。一人の力がやがて仕組みを変え世界の構造すら変えていくのは一見並大抵のことでないようにも思えるかもしれませんが、歴史的な人物の例にもれず世の中では大抵の場合よくあることでもあり、またそれらの人々は必ず世の中の仕組みをまずはよく知り、それから仕組みを徐々に変えれるところから変えていってその結果歴史的な大変化を呼び寄せる、まぁゲームの構造をよく理解しそこから新しいゲームを構築していく、あるいはストーリーを組み立てることにも非常に長けていたわけですね、ができてこそ初めて歴史にある程度の功績を遺すことのできる人物、と相成るわけです。構造がすべての仕組みでその構造を理解すれば自分でゲームを構築して新しい問題を発見したり新しい可能性を見つけたりする、さらには世界を作っていくこともしたりできる、というわけなのですね。まぁ、ゲームの構造というものはこういうものなのですが、よく理解できましたでしょうか?また、余談ではあり結論でもあるのですがゲームというものはあまりにも再現性がありすぎるとそもそもその意味合いが減っていってしまって繰り返す意味がなくなってしまいます。なんのことをいっているのか、といえば電子ゲームなどに代表されるシミュレーションのことで、そもそもシミュレーションとはストーリーありきで、そのストーリーを構築するためにみなさんは電子ゲームのようなものをやっているわけでもあるわけです。元々ゲームとストーリーはワンセットで、ゲームが連続性を持ったものがストーリーであるとも書きましたがそもそも一個一個のシミュレーションにはストーリーがないと意味がないのです。が、しかしそれらのゲームがあまりにもゲームであることを重視しすぎるがために、背景だったり筋書き、ストーリーが蔑ろにされている場合も、こうもいろんな形式で電子ゲームが大量に出回るようになるとどうしてもその「シミュレーション」ありきで出てくるわけなのです。まぁ早い話再現してもあまり意味のないものをひたすらゲームの繰り返し耐久性だけ上げていって再現性を高めていっても、結局はその背景に筋書きやストーリーがないとどうもゲームに入り込めない、というか臨場感を十分に感じることのできないように人間はできているようなのです。結局は人間はその背景の物語だったりストーリーによって物事に大きな意味合いを感じるようにできているようなので、小説などストーリーを書いたりゲームを作ったりするような人たちには、改めてその背景のストーリー、ゲームの物語を重要視して取り組んでいってもらえればなぁ、というふうにお願いしておきたいと思います。ゲームはただの構造でもあるわけですが、人間にとってより重要なのは日常の生活の中でより大きなファクトになっているのはその背景の物語であったり筋書きであったりするわけなのです。ゲームやストーリーなどの創作にあたる人には是非ゲームにストーリーを付けるのを忘れないでおいてほしい、というように思います。結局、人間が日々の生活の中で意味合いを感じているのは、まさにその背景の物語そのものでもあるわけなのだから、というわけでもあるのだから、なのです。
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2016年06月26日

仮説の立証とシミュレーションの差分―答えを知りまた答えを新たに創るには

本稿で説明するのは端的にいうと仮説の立論、あるいは立証自体が歴史というものにおいて答えを作り、またそれ自体が答えになっていくというものです。なぜなら、歴史というものは見方あるいは着眼点によってなんとでも変わってしまうものであり、しいていえばどの説明も、「ちゃんとどこかにはある」ものであり、それが大きい小さいかで巷の歴史家なるもの(?)は歴史的に事実なのか、そうではないのか、という無間地獄のような問いを延々と繰り返しているのです。単純にいえば、その類で歴史にあったかどうか、というものは大抵歴史のほんのインクかすのような部分にまで紐解いていけばほとんどの確率で、「大抵どこかにはある」ものでありむしろそれがある一定以上大きいか小さいかによって、世にいう一般というものでは歴史にあったか、ないかを論じているだけに過ぎないように、思えるのです。つまり、これはどういうことか、というと端的にズバッといってしまえば最初から見方次第で変わるものを延々とあるか・ないか論争してもしようがない、というもので、細かく論じれば「歴史のどこかにはある」し、広範に、というか一般的に平たく述べれば「こんなこともあったとは考えられるが、むしろこちらのほうが物証的にも確度が高いのでこちらの確率が高い」、ということを延々と論じているようなものなのです。これでは答えも出ないのも至極当たり前で、結局はある点を観た人だけが分かる歴史なら、そんなものは広範な歴史とは言えないのであろう、というのを言われるのもオチではあるし、かといって一般的・広範にはそうでもこの細かくも貴重な一点の物証を見れば、通説など一気に引っ繰り返すことも夢ではない、と息巻いてみせるのも、どちらかといえばそれひとつでその時の歴史の全体像が変わるものではない、と突っ込めるといえば突っ込めるのです。つまり、どういうことか、といえば結局見方次第で変わってしまうものなら、物証や事実の大小に関係なく、こうだ、と言ったことが立証されれば、それはその時点限定において多少はあり得るとは認められることだ、ということは認められることだ、という視点は成り立ってくるわけです。つまり、これは見方で変わるものを最初に多少はまともなことを言ったもん勝ちだ、ということを言っているのと同じで(むしろ思いっきりそうなのだが)、その積み重ねが歴史学、というもので今後もこれは新しい観方、視点を提示すれば案外容易に変わり得るものだ、ということはまず頭の片隅に入れておいてほしいことだ、というようには思います。それでいて、なのですがここから本題に入りますが本稿で述べたいことはまさにこの点で、観方によって変わるものならばそもそも新しい観方を提供すればいいじゃん、とはまさにこのことで視点の違いで容易に変わり得るものならばそもそも既存のところに一個新しい視点を提供してやればいいわけで、ここで役に立つのはゲーム理論、というものです。ゲーム理論の詳細についてはゲーム理論の本を読まれるといいとは思いますが、ここで簡単に説明するならば新しい視点を論理的に仕組み的に説明できれば、そもそも見方や反証だけでそうそう簡単に引っ繰り返されるものではない、ということが言えるのです。つまりこれはどういうことか、というとゲーム理論とはそもそも物事や出来事を、仕組みやそのメカニズムから解析するもので、数学の複雑系の一分野でもあります。元々見方や物証ひとつで簡単にひっくり返ってしまう歴史学というものは論理的な数学とはそれ単体では非常に相性が悪いものでもありますから、論理的に数学的にいってしまえば歴史学単体では意味がない、ということも言えてしまうわけなのですが、それはおいておいてその数学の一分野であるゲーム理論と歴史「考証学」として過去の物事あるいは事象を分析するモノを導入してしまえば、そもそも数学側も歴史学側もどちらも困らない、ということになり(この手の論議で有名なのはついこの間出た「21世紀の資本」/トマ・ピケティ著というものがありますがあれは脳機能学者の苫米地氏に著書で「論理的でない歴史学にデータ分析を持ち込んでもしょうがない、しかも論理的に(つまり数式で)立証されてすらいない」とずたぼろにされているのですが、これはある意味簡単で最初から論理的な数学体系もあるゲーム理論なら、容易に立証し得る、というものです。もちろん、先の「21世紀の資本」の著者であるトマ・ピケティ氏がそれを把握していたかどうかは定かではありませんが笑)「考証学」としているのがひとつポイントで論理的でない、と批判されるのはそもそも歴史学(本当は学をつけてはいけない笑)という見方ひとつで変わるものであるから、そこが論理的でない、と批判されているわけであって、それを構造解析して、分析して「ある程度、数学のツールを使って」論理的にできるのであれば歴史「考証学」として数学と歴史は共存可能だ、ということが言えるのです。まぁ、もっとも「考証学」でも「比較・批判学」でもない歴史は単なる先代の日記とおんなじ、ということにもなり得る、というかなってしまうのですが、それさえなんとかすれば、そもそも「ある程度は、その見方において有効な、あるいは限定的に立証可能な」ものとしては十分歴史「考証学」として存在可能なわけでもあります。これをどういうことか、ということを端的に説明しますと、ある程度論理的に立証できるものであれば、十分「比較・検討学」としては機能し得るよ、ということが言えるということです。もちろん、ここで重要なのは、「比較・検討」して事実を暴く、ことではなくそこで得られた論理・法則あるいはデータを基にして他の事象を論理的に解決する、ことであり、あくまで歴史の単なる解明、ではなく細かい点を比較検討して次の課題の解決につなげよう、というのが主旨だ、ということです。比較検討して事実の大なり小なりを言い合っているのでは先に冒頭に書いたくだらない巷のやりとりとなんら変わりありませんので、ここはやはり一皮むけたので一歩踏み込んで論理・法則あるいはデータを導き出してそれに基づいて仮説を立てる、あるいは立証する、というところ、まで進みましょう。そこまでいければ、少なくとも旧式の歴史「学」からは脱却したことになり、巷でよくいうくだらない文系・理系などという(こんなことは日本だけだと思いますが)区別ももうほとんどなくなる、のです。元々旧式構造というのは既得権益によって自分たちの所領を守る(といえば聞こえはいいかもしれませんが、実際には他者から奪い上げているのと同じ)あるいは取り分、へそくりというおいしい甘い蜜を作り出すためにわざわざ作り出されたもので、「あらゆる視点、観点あるいは意味での真実の解明」を主とした論理的な学問、の存在からは元々遠く離れたものであったはずです。それが、東の果ての日の本とかいう国では21世紀の現代にもそういった既得権益構造あるいはそれらを守る利権構造があからさまに慨然と存在するものなのであり、これを問題といわずなんとするか、あるいはそのことすら知らずかつ庶民の裾にまで既得権益構造、あるいは利権構造の正当性が小児の唾液がごとく染み込んでいる国は、他には、ありません。こういった現状を、比較的公に公開された、まっとうな方法で解決し得るのがそもそも先に述べた本来の意味での学問であり、それに対して今まで論理的でないものがどっしりと居座ってきた旧式学問というものは早々のうちに改められなければならないものだ、と強く認識しています。まぁ、ここでこんなことを言ってもしようがないのですが、それ以上に今回はこの稿を読んでいただいたので新しい視点を持ち帰っていただきつつ、今の東の果ての日の本の国、の現状を多いに考えていただいて帰っていただきたいと思います。長い文でしたが、お疲れ様でした。
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2016年06月18日

遠い昔、遥か彼方の銀河と似ている状況

イギリスで労働党議員が襲撃・暗殺されてまだそんなに経っていませんが、もう既出だとは思いますがたぶんどこかでこの話は聞いたことがある方もいらっしゃるかと思いますが、この状況はどこかに似ています。近年のヨーロッパ及びEUの状況を見ていると、どうもどこかで見た遠い昔、遥か彼方の銀河系のお話しに似ていませんか?そう、ジョージ・ルーカス脚本の映画、スター・ウォーズのエピソード1〜3の銀河共和国が元老院の崩壊から闇の勢力の台頭までを描いたシナリオに状況がそっくり、なのです。通商問題、通商連合ですがエピソード1のですね、背景で何が動いているか、という点も含めてTPPや大西洋関税協定の話でもそっくりですし、議員が暗殺されかける、というのも(実際、今回はそれを許してしまいましたが)エピソード2の冒頭にそっくりです。現在のヨーロッパやイギリスでは極右派がそれにあたりますが分離主義者がだんだんと銀河共和国から離れていく(EU離脱の話にそっくりですね、まぁ背景に何がいるのかは知りませんが)銀河とEUでは多少規模が違うかもしませんがひとつの共同体からだんだんと何かのバイアスがかかって離脱していく点では同じですね、背景で何か闇の勢力の大きな思惑があることは事実かもしれませんがそのあたりでも同じでスターウォーズの場合は最終的に暗黒卿が関わっていましたね。元老院の腐敗・崩壊から共和国の解体、極右の台頭(スターウォーズでは分離主義者は極左扱いですが、その点では基本的には同じだと思います)強大な軍事力の追加、この場合ではクローン軍は現実にはないにしろ、なにかしらの軍産複合体などのバックアップによって軍事力が追加される場合も勘案されます。そしてスターウォーズのエピソード3では平和の精神の象徴であるジェダイ騎士団が抹殺・掃討されるところまで進んでいきますがこれも現在の現実世界ではどれに該当するかは分かりませんが、とにかく何かしらの今まで世界の平和の象徴だった存在が排除されるのは間違いないと見ていいでしょう。一映画の脚本といえど、ジョージ・ルーカスの書いたものは遥か未来の遥か彼方の銀河の地球の事象まで、予測して描いていたのかもしれませんね。映画の場合は闇の勢力の統領である暗黒卿が平和の象徴であるジェダイ騎士団を敵視していたために最終的には抹殺されるという憂き目に遭いましたが、闇の勢力の統領に敵視されるとかは関係なく、闇の勢力からしてみれば政治的な理由で何らかの平和の象徴が世界から排除される可能性は非常に高い、わけです。まぁ、それが何なのかは様々な情報を集めて加味してみないと色々分からないところではありますが、とにかく政治的・経済的・事象的要素のどれを加味してみても、今のヨーロッパやEUの状況は彼の映画の筋書きにどことなく似ています。こういう話は前からどこかかしこで言われていることだと思いますが、状況が結果が似るものはその経過やその途中の事象すらどこか似ている、とはよくいうことです。英の議員が実際に暗殺されてしまったことは大変痛ましい限りですが、何かひとつの世間に取り上げられる事象がぽつぽつと2,3起こるときは、大抵どこか他でもいろいろな
ことが起こっていて、さらには全体でも何か大きなプロットが動いているもの、です。その、「闇の動き」に際していえばまず情報がなかなか出回らないので察するには余りにも余りある状況であることはいつの時代もどこもかしこも一緒であるとはまず言っておかなければならないことだ、とは思いますが、それ以上に何か世間で目立つ事象が起こる時というのは、裏で必ず何かひとつかふたつのものが同時に動いているものです。最終的に、この状況を突破するには各個人がより強くあること、が求められるのですが、世界の住人その他諸々がもれなくそうであることが求められるわけです。ジェダイ騎士団の精神ではありませんが、最終的に真なる敵を打ち破るのは己の中の強さ、その精神の強さにあるのです。心は鍛えることはできない、とはよくいうことですが、それでも精神を磨くことはできます。覚えておいてください。最終的に敵を打ち破るのは、真なる内なる力、なのです。
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2016年06月12日

生産性と自然の許容量-バランスは如何に生産を許すか

生産性と自然の許容量、といことですが主旨はといえば人間の生産活動に必要な自然のリソースと、その生産に必要な資源を自然からどれくらい取っていいのか、どれくらい生産に回していいのか、ということです。まず、これにあたって第一に押さえておかないとばいけないのは、人間が例え生産活動のためであっても一度に自然から取れるリソースは、どんな場合であっても限られている、ということです。つまり、無限に摩天楼を組み上げてその中で上層市民と下層市民を作って許容量以上の人口が住むというものなどもってのほかの都市デザインで、SFではその「成れの果て」の荒廃した姿がよく崩壊と改革のシンボルで見られるのですが、本来、自然とのバランスと合一でこの地球上の人間の生活が成り立っていることを考えると、到底考えられないアイディアなのです。もっとも、アイディアとしてはSF映画のものとしては決して悪くなく、むしろ今の人間の生活が自然の下支えの上に成り立っていることをよく分かっているからこそ、作家などはその「決して目指してはいけない真なる荒廃した姿」モデルを機械文明の摩天楼というお馴染みのデザインに託したわけで、むしろその根底的な思想には、自然とのバランスは決して崩してはならない、という戒めがよく込められているのです。なので小中学生が近未来像を聞かれて高層ビルの摩天楼をすぐ連想してしまうのは悲しむべきことで、本来そういったデザインは決して成立させてはならないものなのです。まぁ、もっともいわずとも、今の子供たちはそのことをよく分かっているかと思います。とにかく、あの「実は荒廃した」高層ビルからなる摩天楼群、を未来都市像として想像してしまうのは間違いです。少なくとも自然とのバランスを考えてモデルを作るのなら、あのようなものは決して現実化させてはなりません。
さて、話を戻しますが、人間が生産活動に使うものであっても自然から一度に取れるリソースというものはどんなものであっても限られています。で、当然生産活動には自然のリソースを必要とするので(もっとも人間が生産活動を通じて作るものは120%自然のものからでなければなりませんが。石油やプラスチックだって太古の昔は元は植物です)というわけで人間の生産活動は自然のリソースからしか出来ませんがとなると人間の生産活動そのものにも一度にできる量にはボトルネックが存在します。ボトルネックが存在する以上生産の仕組みを向上させていけば生産量が上がることになりますが、その方法が生産効率を上げる、というものです。ある程度の器械の導入や工房・工場などの施設や設備の導入で、基本的には効率化できることになりますがその設備を導入する、いわゆる設備投資の費用はその工房や工場などを所有して産業として生産して売ることで得られる資金で工面することができます。そうすることで、器械や設備の導入で生産が結果的には効率化することになるのですが、そもそも人間の生産活動には120%以上自然のリソースを前提とするので、どれだけ産業として効率化していっても最終的にはボトルネックが来ることになるのです。つまり、人間の生産はそもそも自然と都市のバランスで出来ていることになるのですが、あるものを自然のリソースから作るとなると必ずその産業的生産量にはボトルネックが来ることになります。これを産業の成長に重点を置いた場合に役に立つのが、「生産するものを変える」ということです。生産するものを変えれば、より自然とのバランスに近いものに変えれば、限りなくボトルネックから離れることになります。そうやって産業を最小効率化することによって、こんどは生産活動だけではなく産業そのものから社会、それから文明の文化だったり哲学が大きく発展することになるのですが、これが文明が出来て大きく発展する仕組みそのものです。まぁ、それについてはまた後述するとして、人間の自然に基づく生産量のボトルネックはそもそも生産するものを変える、効率化することによって限りなく解決に近づく、と書きました。で、その生産するものを変えるときに、大いなる参考になるものが錬金術の「四大元素」です。火・水・風・大地と来れば割と知っているという方も多くなるかと思いますが、まぁ要はその自然の基本元素のバランス、特に自然ですから水と風、風は植物ですがそのバランスを第一に重きに置けば、人間が限りなく持続可能な、限りなくサイクル・循環可能な生活モデルを創り出すことができる、のです。火はエネルギーや火山などの象徴ですし(もちろん太陽も含まれます)、大地は大地そのものですし、あるいは土や金属、鉱物資源なども指しています。火や大地はわりと周期が長い、つまり壊れにくくかつ使いにくい、ですから自然ではむしろ土台、であって風や水などは流動的でかつ比較的脆く、そしてあらゆるものに通じていますから周期が短くかつあらゆる自然に浸み渡っている、のです。こういった自然のバランスを産業の前提におかなければ、かつ生産の前提にしなければ、人間の生活は成り立たないどころかむしろ早々に崩壊して崩れ去ることになりますが、とにかく人間の産業はおろか生活そのものを支えているのは自然そのものなので、人間の生産活動には必ず自然とのバランスを第一に掲げなければならない、ということはまず強く念じておかなければならない、ことでもあります。そして人間の生産活動は必ず自然のリソースを前提としますから、それらを最小効率で効率よく利用しつつ、適度に絞ることで上手く循環させる、そして持続可能な環境それから社会モデルを作る、ということが本稿の主旨にあたるものなのですが、そろそろ結論に移りたいと思います。人間の生産活動、というものは120%以上自然からのリソースを前提とする以上、そもそも自然からどれくらい取っていいのか、あるいはどのくらい生産に回したらいいのか、という最初の考えをまず前提とするのですが、どのくらい生産に回したらいいのか、というのはまず、作りたい量に応じて最小効率で材料を調達して回せばいいことになります。その際にも自然を傷つけないようにして、産業に回せばいいわけです。で、次に必要なのはどれくらい自然から取っていいのか、ということになるのですが、書いた通り、それこそどのくらい作りたいのか、という点に合わせておけばいいことになります。つまり、人間の生産活動そのものを、そもそも自然との合一というバランスの元に成り立たせるのであれば、そもそも必要であればその都度一度に必要な量だけを自然から取って生活していけばいいことになるのですが、その点こそ最も重要でどれくらい作りたいのか、という必要量に応じてその都度最低限度の量だけを自然から取って、いやあるいは自然から「頂いて」生活していけばいいことになります。これはかなり基本的なことになるのですが、自然との合一、バランスをまず第一前提に戴く以上、そのバランスにその都度照らし合わせながら生産量を決めていけばいい、のです。これをやらないとそもそも生産が持ちませんし逆にこれが出来ないとそもそも生活が成り立たないものでもあるのですが、いかがでしたでしょうか。人間の生産活動というものそのものが、そもそも100%以上を自然のリソースから頂く、という自然とのバランスそのものから成り立っているものなのですが、それを利用しかつそれに基づいて持続可能な、循環可能な社会を作っていくにはそもそも哲学が文明社会・文化の基盤であるようにその精神性、理念が絶対必要不可欠になるわけなのです。これがないと、というよりはこれなしではこれ何一つ何も成り立たない、というものが文明社会の基盤、精神性・理念そのものであって、これがなくては、何も成り立たない、というものが人間社会の場合は自然だったりするのです。まぁ、精神性如何と書きましたが、これには一人ひとりの心がけ、が大切になります。例え産業の生産活動であっても、全てを自然から受け取って成り立っている、このことを心に秘めながら、いや忘れないように、今日を生きていって欲しいと思います。では、これにて失礼します。
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2016年06月06日

ハーブ・薬草関連のwiki作りませんか?

ハーブとは、植物のうち人間にとって有用なものすべてを指していう言葉なのですが、地球上の人間はどの地方でも大抵ハーブ、あるいは薬草を上手く利用して共存してきました。歴史上、ハーブあるいは薬草と人間の暮らしが切り離されたことはなかったかもしれません。現代の社会では、まるでハーブの存在になど気付かないとでもいうような風潮がどこかにあるのも確かです。しかし、それに騙されてはいけませんよ、ハーブや薬草から人間の暮らしを切り離そうとするのは製薬・医療・保険の利権の目論見で、実際問題私たち人間を不健康にするばかりか人間らしい暮らしから程遠く遠ざけてしまう、そんな意図が見え隠れしています。なぜそういうことを企むのか、というと単純に健康らしい生活から遠ざけて、暴飲暴食など煩悩に走らせて不健康にしてしまえば、単純に製薬・保険の分野が儲かるから、です。また、他の利権などの洗脳も受けやすくできますし、人間を完全に廃人というか、機械にしてしまえばただ働いて税金を献上させるための奴隷にできるので、支配者である利権側にはこれ以上なく好都合、なのです。今の日本では、特にそれが酷いのですが、こんなんに騙されていてはいけません。人間本来の生活とは、ハーブあるいは薬草、漢方などの食療など本来の意味で自然に寄り添うものであったはずです。最近、ハーブといえば薬の一種であるかのように脱法なんとかというものも出てきたかと思いますが、確かに、ハーブ・薬草はすべてがいい効果だけ、とは限りません。しかしながら、毒の部分も含めてそれらに寄り添う形で上手く付き合いながら長い年月をかけてハーブ・薬草の利用法を体系付けてきたのが薬草学というもので、どの地方にもそれぞれ昔ながらの形で独自の体系があります。もちろん、初心者が扱うならば毒草など少しでも毒性のあるものは避けてハーブ・薬草の利用法を学ぶのが筋ですが、ここで言いたいのはどんなものでも自然のものなら上手く利用する方法があり、例え多少毒性があっても用い方次第では薬にでもなることを、本質的な地球上の人間の一員であるならば、是非全ての人が知っておくべき、ことだと思うのです。ハーブ・薬草にもそれぞれ薬効など有効利用できる部分と使い方によっては毒である部分と、両方あります。自然にはいろいろあるのです。その多様性のもと、それらをさらに幅広く解釈し、さらにそれらを分析して自然と人間の在り方やより上手い付き合い方、あるいは自然への寄り添い方を研究するというのが、今回呼びかけたwikiの目的です。wikiといっても、読みやすい媒体のようなものですので普通のwebページとなんら変わりありません。ただ違うのはテンプレートがあって編集しやすいだけで、文字だけという意味では普通のwebページ扱いしても結構だと思います。ちなみに、このブログと同じところですがseesaawikiというのを利用して作ります。wikiに関していえばすでに数個やっていますので作り方としては問題ありません。して、今回募集するのは編集者、読者等参加者の両方で、慣れない方は掲示板や読者での参加者でも、ハーブ・薬草にある程度詳しいなどwikiの編集に実際に携わってみたい、などの方は編集者、あるいは編集メンバーとしてのご参加もお待ちしております。特に、直接参加しなくても読者や掲示板への参加者としてもご参加いただけますので、どなたでもご気軽にご参加ください。何か分からないこと、質問等あればこちらのエントリのコメントまでどうぞ。また、単純にこんなwikiほしい、とかこういう題材はどう?というwikiに関しての提案でも構いません。賛同者がなくても数日中には建てるかと思いますが、より幅広く奥深い内容のwikiにするため皆様のご参加をお待ちしております。なお単純な質問でも大丈夫です。是非、お気軽にご参加ください。
posted by skywalker at 14:36| 愛知 ☁| Comment(1) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする