2016年10月19日

戦いにおける戦術についてTips

陣形や戦術についてあれこれ書いてきましたが、具体的な戦術の動き、あるいはそれをゲーム的観点で見た場合の戦術とは、つまりこうです。まず、戦術というものはどんなゲーム、戦いであってもほとんどと言っていいほどフランキング(翼攻撃)で決着が着くものなのですが(詳しくは「歩兵と騎兵、中世の陸戦戦術」をご覧ください」)、それは何故かというと、単純に歩兵にしろ騎兵にしろ実際の戦闘時は鎧などもあり動きの重いものなので、そういう意味では普段通りの機動力じゃないところへしかも正面の敵と交戦中に真横から突撃を食らうとどうなるか、というと、必ずと言っていいほどその軍隊は狼狽、します。何故かと言えばそもそも戦争における軍隊というのは職業軍人であっても生身の人間が金属の鎧を身に着けて行うものなので、そういう意味では単純にゲームによくあるような部隊の攻撃力や防御力・機動力などで勝敗が決まるものではありません。戦闘において一番戦況を左右するものは、その戦っている兵士個々そのものの士気であって、そういう意味では戦場において部隊規模で狼狽したり混乱させられているようでは、ほとんど死に近いといってもいいほどなのです。そういう意味で戦況を動かすのには相手部隊の士気にダメージを与えるのが最も効果的で、戦場において戦況を左右するものはほぼ間違いなく十中八九士気である、といっても過言ではありません。その士気単位でダメージを与えるのに最も効果的、なのがフランキング(翼攻撃)で、これは機動力から騎兵で行われることが多いですが別に歩兵でも構わずとにかく戦場において相手に横や背後を取られる、あるいは狼狽・混乱させられる、というのは受ける側にとって最も致命的、になります。下手したら、盾を持った状態で敵部隊の弓の斉射を受けるよりもしんどいとは思うのですが、とにかく物理的にはほとんど損害を受けていない状態でも、戦場で士気をやられるというのはほとんど圧倒的に戦況を決められてしまう原因にもなります。(もちろんこれについては現代のスポーツでも同じで、監督やコーチなどのプレーの内外でやるべきことは選手のパフォーマンスを最大限に引き出す、という意味でもその士気、あるいはコレクティブ・エフィカシーともいいますが、選手の自信やモチベーション、やる気を引き出してやることにあります。そういう意味では古代も中世も、近世も現代もほとんど変わらない、ということになるとは思うのですが)古代から中世、近代までの戦いにおいても戦場の戦況を決めているのは圧倒的に士気あるいはその他戦場の背後要因であることが多く(大体同じ年代の似たような列強間ではさほどその基礎的な軍隊の戦力差があるとはいえないであろう)、そういう意味では士気というのは戦場においても、あるいは庶民の日常生活に(この場合はモチベーションともいうが)おいても圧倒的に重要な部分を占めているのであり、逆にいえば戦場では相手の士気を攻撃することで最も効率よく勝ちを導ける、ということなのです。そういう意味ではフランキングが特に中世・近世の陸戦におけるひとつの戦術のキーのようなものになっていくのですが、そのフランキングを実行する際は大抵の場合自軍本隊(指令部隊)から見て必ずといっていいほど右側から仕掛けると最も効果的、になります。ひとつは、地球上の人類は全体的に基本的に右利きが多い、からで弓や弩、鉄砲を撃つ際なども自身から見て右から左に標的を追った方が当然命中させやすくなります。まぁ、これはFPSなどをやればよく分かると思うのですが、大抵の場合は右利きが多い以上、利き目に関わらずある程度重い弩や銃などの武器は利き手側から逆側に追って照準を合わせたほうが命中しやすくなるので(これには射撃の際の衝撃を吸収する動きと筋肉の動きも多いに関係していると思われる)、そういう意味ではフランキングを実行する際は、必ずといっていいほど自軍から見て右側から仕掛けたほうが、断然成功率が上がります。もうひとつ、右側から行く理由としては陰陽五行において北を上にした場合物事の流動性、スムーズさを司る水と風、それから勢いを司る風と火の方角がそれぞれ順に水・風・火が北・東・南に対応しているので(大地は南西、金・全は西)そういう意味では基本的に勢いを伴う事は北を上に据えた場合は右側から仕掛けるほうが断然成功しやすい(というか少なくとも縁起はいい)のであり、またさらにそこから派生させると狙撃、狙い撃つ、慎重な攻撃は主に象徴が風と水であるから北東の方角から仕掛けたほうが効率がいいのであるし、火と風に象徴される突撃・突入・勢いのある攻撃、などは陰陽五行でいえば南東の方角から仕掛けたほうが成功率が高い、のです(実際に三国志演義の徐庶が指揮を執った博望坡の戦い、では総大将の劉備が趙雲に対して曹操軍の将軍曹仁の敷いた「八門金鎖の陣」に対して手勢五百騎を与え「東南の方角より馳せ入り、西へ西へを駆け散らし、また東南の方角へ(風と火)と取って返せ」と指示している)。まぁ、風水的な縁起としてしまえばそれまでなのかもしれませんが、ある地方では例えば太陽の通る方角は決まっていることからも、そこから考えれば方角とそれに付随する属性が物事の細事、あるいは審美に関わっていることは想像に難くないはずです。大抵そういった古代からの習慣や言い伝えのものは、最先端にいくほど科学的に観れば意外と根拠のあることが多く、そういう意味では陰陽五行もバカにならない、というよりはむしろすごく実践的でとてつもなく使える、のです。また、これらについては陰陽の向き、ということも影響しています。

(右回りである;これ、北が下だな。南がこの図では上。)
ということからも右側から戦術、あるいはフランキングを仕掛けたほうが断然成功しやすい、といえるわけでまた相手も同じ習慣に則っていれば当然右側、つまり向かって自軍の左側から何かしら仕掛けてくるわけで、そうだと予めある程度分かっていればそれに対して事前に準備しやすくなるので(左を装備や地形などで守りを固め、右から打って出るように備えておく、など)、またお互いがそうだとある程度決めていれば全体的に戦況が動かしやすくなる、ということもありそういう意味では習慣のようでもある程度は理に適った、ことなのです。まぁ、それを予め知った上で逆に相手の全く裏をかくことも平気で行われるのが実際の戦場、というものなのですが、そういう場合でも特に東アジアの事象となりますが軍隊を動かすなど、大事の際には縁起を担ぐことは必ずといっていいほど通る道、なので逆に縁起でもないことはそういう大事の際にはやらない、といったことは戦時の決まり事、のようになっている節、もあります。まぁ、とにかくフランキングなど戦術は古今東西問わずとも右側から仕掛けたほうがいい、ということなのですが、このように様々な要因が絡んできている、ということは言えなくもない、ということです。この項の主張に関しては以上です。 (中世・近世ヨーロッパ歴史研究考証wikiより転載)
ついき(わりとじゅうよう)
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2016年10月12日

陰陽五行と錬金術の四大元素

はい、なにか今更感がありますが陰陽五行の特に五行と錬金術の四大元素に関するものです。五行とは、下図を見ていただければ分かるかと思いますが、金(全・エリキシル)・水・木・火・大地の五元素とも呼べるもので、金は特に完全物質とも、全ての属性を含む、いわゆるエリキシルのようなものだ、と取ることもできますが、
太極図1.png
画像はいずれもYahooの画像検索より引用
new-inyogogyo2.png
五行、中国でいういわゆる五元素は、五行相克といって相生・相克とよくいうポケモンやファンタジーあるいはRPGなどで出てくる属性の相性のようなものが存在します。すなわち相生は上図下の五行の円の外周部分の矢印順序のようなもののことで、相生、つまり矢印の元から先へとそれぞれの属性がその先の属性を生かす関係性のことを指しています。逆にいえば、これらの相生の関係は逆を取るとRPGやポケモンのような属性の「この属性がこの属性(タイプ)に強い」などといった相克のような関係性にも取れますし、上図下のような相克の関係性においても、それぞれの自然の仕組みがよく分かるのではないかと思います。ついでいうと、といってしまってはなんですが、実はこの五行の木、つまり自然に当たる部分を風に換えてしまうと、ぴったり錬金術の四大元素と同じように取れることがお分かりになると思います。まぁ錬金術の四大元素も上図下の五行の木を風に、金を全あるいはエリキシルと入れ替えるだけで同じような相生・相克の関係性と取ることができるのですが、時と場所が違っても、人間が長い歴史を積み重ねればどこも解釈が似通ってくる、ということの典型、でしょうか。それとも、超古代文明が遺した古代の叡智が、姿や形を変えながら人類の長い歴史に遺ってきた、ということなのでしょうか。まぁ、どちらにせよ東洋と西洋でも(ちなみに西洋の錬金術は元はあちらから見て東洋、東、つまりアラビアや中近東発祥のもの)長い年月を重ねれば考え方が似通ってくる、ということなのでしょうね。上図だけ見ても分かる、というようにそれぞれがシンプルな象徴のようなものにまとまっているのも特徴的ですが、まぁ、現代に至るまで姿・形を変えながら陰陽五行や錬金術の四大元素が残っているとは、感動的でもありますし時の重さを感じさせるもの、でもありますね。

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2016年09月17日

生命エネルギーの賜物-火の扱い方と文明の危機

生命エネルギー、と書きましたが錬金術の四大元素の火の属性は、まさにエネルギーそのもの、です。生命体に火のエネルギーが含まれる場合は必ずといっていいほどその生命エネルギーを表しているのですが、一方で、人間がそれのエネルギーを利用し始めたのが、いわゆる火、炎です。人間の文明が芽生えたのはそもそも火を利用したから、ともいえるものですがその後、一方で人間は火薬の利用を始め、銃・大砲など銃火器の登場、それから燃料を利用する蒸気機関、その後は動力源、エンジンを発明して、これを利用してきました。まぁ、その後は軍事兵器で爆弾なんかも作られるようになって、普通に落とされる時代にもなってきているのですが、これらはすべて火のエネルギーを上手く利用したもので、人間は火のエネルギーと付き合いながら、今までなんとか文明を築いてきた、わけであります。ただ、ひとつ引っ掛かるのは、タイトルで火の扱い方と文明の危機と表したように、これら火のエネルギーを灯りや熱源、あるいは加工の道具、物を乾燥させたり、といった生活に必需の範囲で利用していた分にはなんら問題無かったのですが、それを英語でいえばまぁ、インフルエンス(influence)、いわゆるインフレ、ですね熱量をある一定基準以上生み出す、いわゆる熱量の生み出し過ぎ、やりすぎの域まで人間が行くとどうなるのか、というとさっき出したように銃や大砲などの銃火器、あるいは爆弾やそれを落とす軍用機のエンジン、挙句の果てはミサイル、核ミサイルなど錬金術ではある意味絶対禁忌とされている「他のものを破壊してしまえる力(オーバーキル)、オーバーパワー」となってしまうのです。まぁ、物質の成り立ちを探求する錬金術的にも熱量的に観ても当然NGなものなのですが、他のものを破壊してしまえるレベルの熱量、あるいは言い換えればエネルギーは、どう考えても行き過ぎです。まぁ、これが中世までであれば、火の戦争への利用といっても普通に熱源レベルか、せいぜい火矢や投石器の火炎弾、あるいは城を守るための油を城壁の上から注ぎ落す、など熱源としての利用を超えない、ものでした。それが火薬の伝来に始まって銃・大砲など銃火器が広がっていって、結果的には特にヨーロッパにおいて戦火に火がついたわけですから、火薬の発明はその後化学肥料の発明にもつながりましたからある意味全てが必要悪だともいえないものの、それでも中世から近世にかけての人類・地球に大きな災いをもたらしたことには、違いありませんでした。物をただ燃やすレベルからちょっと火を近づけるだけで「爆発」するレベルの非常に好反応な火薬、を発明したわけですから、当然それは武器として戦争に利用、されます。しかしながら人間の場合は概して極大な力を得るとそれを使いこなせないのが分かっていたのか分かっていなかったのかどうしてもそれを使ってしまう傾向にあります。元からその発明がその後の文明・社会に与える影響を十分に考慮できたいたのであれば、その後も何らかの形で上手くその力も制御することが可能だったのでしょうが、結局のところ裏でどういう力が働いていたのかは知りませんが人間の場合は、「地球上で戦争という形でそれらを盛大に利用する」という愚かな手段に出るしかなかったようです。まあ前時代の人間が何をしていたのか、なんてのはおいておいてですね、今の人間がするべきことはそれらの制御なわけですから、それをこれから観ていこう、とも思うわけですが、錬金術の四大元素的にいえば単純に観れば火のエネルギーというものは、それを人間が有為に生み出したのを前提とすればそもそもその場のその他の水・風・大地のエネルギーの総量を越えたりしなければ、そもそも文明的には失敗続きの人間にも十分制御、可能なものなのです。当然、兵器を製造する際にはそれぞれ水・風・大地など火以外のエネルギーも消費することになるのですが、それはおいておいてそもそもその場において「過剰な」火のエネルギーを生み出す際でも、前述した通り水・風・大地などのその他エネルギーの総量を越えなければその場にいる人間に十分にそれらは制御可能なものなので、錬金術的なエネルギーで観てもそこまで問題はない、わけです。もちろん、火のエネルギーを集中的に生み出すこと自体、そもそも他の三元素のバランスを崩しかねない、非常に危険な行為である、ともいえるわけなのですが、それ以上に、単純計算で観ればこの世界にとってそこまで問題ではない、わけなのです。ところが、人間が今まで生み出してきた、いわゆるそれら「禁忌の発明」はその火のエネルギーを単純にいえば極大まで増大させる方法、でもあったわけで錬金術的に観れば、そんな危ないことをすれば人類の文明が遠からず未来危機に晒される、ことは誰にでも目に見えていたでしょうし、当然その場の科学者だって何人かは反対したでしょうが、それでもそれを結果的には「やってしまった」のが今の今日の人間文明社会、だったわけです。もう、こういうと人間が使う火のエネルギーは悪いことずくめばかりだ、と思われるのかもしれませんが、決してそうではなく、前述の通り、その場の他の水・風・大地の三元素の総量(実際には等価ではなく元素の周期的に観れば火3、水2、風1、大地4、なので普通にいけば火が他の三元素の総量を越えることはない)を越えたりしなければその場の人間にも制御可能なものでもあるので(むしろそれらを下回っている状態であれば有為に制御、そして利用できると考えられる)とにかくその場にいる人間が錬金術的観察を怠らずにその場のエネルギーを制御してやればいい、だけなのです。それを知ってか知らずしてか、過去の人間は恐ろしいそして悍ましい兵器を作ってきてしまったわけで、この尻拭いを誰がしなければいけないのか、というと当然膨大な火のエネルギーの処理には当然莫大な火のエネルギー及び他の三元素のエネルギーの消費も伴わなければならないので、といって結局のところ、その後の未来の人間、なわけです。こうやって観ていくと、本当に火のエネルギーはこういう風だといいところなしだなぁ、となっても仕方ないところ、なのですが前述の通り他の三元素、いわゆる水・風・大地、すなわち環境で制御が利いていれば人間にも十分に制御可能なものだ、とは書いた通りですが、それでも膨大になった火のエネルギーは当然誰にでも制御できるものではなく、むしろそんな人物はいない、と思った方が当然よい代物、なので結局のところそんなものは作らないに越したことはないですし、そもそもそういうものが、いわゆるああいう恐ろしい、悍ましい(大量破壊兵器含む)代物だったりするのです。そうとくれば、単純にこれ以上作らなければいいだけじゃないか、とくればいいですが、人間の文明の場合はそうはいかず必ず大量の火のエネルギーを生み出すとそれを利用しようとする、立場の人間が現れてくるわけで、まぁ、それについてはこの場では言及するつもりもありませんが、とにかく火のエネルギーが膨大にならないようにするのがまず第一、です。それから、火のエネルギーは前述の通りのように水・風・大地などのエネルギーがあればエネルギー的に十分還元可能、なので(還元可能、ということは吸収・制御可能だ、ということ)とにかくその場においての総量がその他属性の総量を越えない、ようにすることがまず必須だ、ということは言っておかなければなりません。そのためには火のエネルギーの場合は事前にどれくらい使うのか、でどのくらい生み出すのか、をまず正確に計算していなければいけないところで、そういった錬金術的観察、それから計算無くしては、まず安全に扱えない、ものなのです。もちろん、今の現代の私たちの生活では非常に有益に制御された状態でありますから、まず下手っぴでもよほどのことでもない限り大丈夫なのですが、それでもコンロなど爆発の危険性も必ずしもないわけではないわけで、そういう意味ではいずれの場合も何も知らない人にとっては危険な代物である、ということにはまず変わりはない、です。ただ、他の自然物の例にもれずそれらを比較的安全に学ぶ方法もないわけではないわけで、例えば野外活動などで実際に焚火などで火を扱ってその物をその目で見て、触れて感じることがまずすべてであり、逆にいえばそういった手段でなくてはとてもではありませんが、ズブの素人の人間に火はまともに安全に扱えたもの、ではありません。やはり比較的安全な環境で、他の三元素の例にもれず実際に扱って覚えることが一番、なのですがそれすら、怠ってしまうようでは色んな意味で今後の人類は危うい、ですし逆にいえばそういった地道な活動を行っていくことで、人類全体の改善を図れる可能性だって、あるわけです。まぁ、私は人類が比較的まともなそっちの方向に進むと思っていますが、何も知らないがゆえに危険なことをする人間がいることも、事実です。まぁ、そういった無知が世の中をダメにするのは人類に限ったことではありませんが、それでも例外でもなく他人事でもないので、その点そういった地道なところから、よりよい人類としての在り方、を人類としては探っていきたい、ですね。
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2016年09月08日

ゲームの極致と“臨機応変”という言葉の重み

今まで、散々ゲームの仕組みであったりとか陣形のことであったりとか、戦線の突破など書いてきたのですが、はっきりいいます、ゲームは状況に合わせて動くことこそ、全て、なのです。機に臨みて変に応ず、という臨機応変という言葉がある通り、結局ゲームの仕組みだとか構造だとか関係性だとかそれぞれ細かい事象を観ていっても、結局のところ今ある状況を観てどう動くか、というところにゲーム的力は集中してきている、のです。どういうことかというと、今の状況を観てどう動くか、という動くか、の部分に全てのゲーム的展開の可能性の根源はあるのであって、ゲームの一部あるいは一員である自分がどう動くか、によってそのゲームは動いて、いくのです。ということから考えますと、臨機応変、機に臨みて変に応ず、というのが兵法の最善、であってこのブログでいつぞや書きましたが、兵法での最強の陣形は“無形の陣だ”の通りその都度その場の状況、あるいは戦況に応じて陣形を変える、つまり状況に応じて、戦略的、あるいは戦術的に動くという点で臨機応変の概念とほぼ一緒のものである、ということなのです。ゲーム的選択性に全ての可能性がある、ということをこれまでもいくつか書いてきたかとは思うのですが、それ以上に、選択肢以上に今現在のある状況を観て、そこで判断して動く、というのはある意味ゲーム的極致であることはいうまでもありません。ゲーム“理論の”極致という意味ではゲーム理論というのは元々物事の選択性に対して最善の答えを数学的に導き出す、ことが目的なので、極致としてはあらゆる意味での万能の答えを、ということになるのでしょうが、仮にいえば、それはゲームがある、あるいは今現在(の存在)がある、ということであって、結局そのゲーム的函数から今現在ここの存在を導き出す、というのが一応数学的な意味での答え、なのではないのでしょうか。あらゆる選択性に対しての万能の答えを、といっておきながら実際はその選択性の如何が今現在のここに係っているので、そういう意味ではちょっとこけおどしのような感じもしますが、それでもゲームあるいはゲーム理論はその選択肢、あるいは手段のひとつであって、結局のところ道具なので、最終的に答えを導き出す、のはそのゲームのプレイヤー一人一人というか、そこにいる人間、一人一人であったりするのです。答えを示すといっておきながら、実際はその答えとは今現在問題を解決すれば……ということになるのですが、(それはそもそもゲームあるいはゲーム理論というものが手段あるいは選択性の科学であるから、最終的な答えはプレイヤー本人が求めていかなければならない、ということでもある)それでも選択性の如何そのものでゲーム的展開は変わる、というところは間違ってはいませんが、それでもなおかつ、ゲーム的選択性としての最善の答えは、手段>(乱数)選択性になるのでその都度今現在の状況を観て、自分の目的と整合性を持ちつつ、自分にとって最善の選択肢を取る、というところが一応の答え、なのではないのでしょうか?結局のところ、総括してしまえばゲームにしろ選ぶのは自分なので、今ある状況を的確に分析して、最善の答えを出していく、しかないのです。結局のところ、理論的に最善の答え、あるいはそれを導き出す、方法を考えついても最終的には、今そこにある人たちで、その都度判断していくしか、ないというのが究極の答えであり、ゲーム的極致、でもあるのです。
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2016年09月05日

戦線の突破とゲーム的進行-ゲームのルールと攻略

戦線の突破とゲームの関係性について、ですがまず初めにいいますと、いわゆるゲーム(戦争における戦い、スポーツなどのゲーム、あるいは駆け引きなど)と呼ばれるものは大抵の場合、いきなり極端な例えですが、相手の戦線を突破することで道が開けます。つまり、例えば戦争における戦いやあるいはそのゲーム、さらにそれを模したサッカーやアメリカンフットボールなどのスポーツにおいても、ゲームに勝つ、つまり攻略するには相手の戦線を突破しなければならない、のです。これは、ゲーム理論的に数式を使わずに単純にいうと、相手の戦線、つまり戦いなどでいえば陣構え、フォーメーションのライン、なのですがゲームに勝つ、攻略するにはゲームを展開させなければいけませんから、普通にゲームというものは押し合えばやがて膠着状態になってしまいますから(ゼロサムゲームでもある)、どこかでゲームを展開させなければいけない、のです。となると、相手の戦線を上手く廻り込むなどして巻き取らないといけませんから(大抵の場合スポーツなどの試合でもそうだが戦いにおける戦線というものは一直線で構成されている故に側面を衝かれると弱い)戦線単位で見て(だいたいここでの例えでは30〜50mほど、二列か三列の歩兵などの横列陣だと想定していただければ分かりやすいかと思うが)相手の戦線、つまり歩兵陣と自陣の戦線、歩兵陣が向かい合っているとして、戦況、つまりゲームを展開するには相手の戦線、戦列の横から廻り込まないといけない、のです。下記図参照↓
戦列図・フランキング.png
図にすると若干分かりやすいかと思いますが、戦列同士で対峙した場合は陸上戦の場合は敵戦列側面に廻り込むと効果的に、相手より優位に立てます。ちなみに海戦の場合は風向きにも移動が依存しますが基本的に敵戦列前方になります(よくある丁字砲撃)。かなり大ざっぱな説明になりますが、基本的にこの方法であれば敵戦列を突破できます(これに合わせて敵第一戦列が移動後の自陣第一戦列と斜めに方向を変えて対峙しても自陣第二戦列で横を取れるため。仮に敵第二戦列が前に出てきてもいいが、行進速度の関係だと両軍ともほぼ同じだとして自陣の第二戦列が前に出て前進するまで間に合わない。よって敵方の対応策としては第一戦列が少し下がり気味にスライドして自陣の第一戦線と対峙すると同時に、第二戦列が素早く守り気味に前に出ないといけない。そうでないとゲームにおいては仕掛けたほうが常に若干早いので、自陣の第二戦列にあっという間に前進後突っ込まれて、第一歩兵戦列がごちゃごちゃにされてしまう)。上記のケースだと、例えば中世の場合であれば敵側の第一戦列が自陣側の第一戦列のフランキングに対応しながら、陣形を方陣か円陣に変えて、敵と正面から向き合う面を増やすことも、できます。ただ、この場合も敵側第二戦列が素早く第一戦列の横をすり抜けて蛇行陣の状態で自陣第二戦列と向かい合わなければいけませんから、結局はそこからまともに立て直して相対するのも時間的に難しいですし、そのまま自陣側の第二戦列に対して蛇行陣のまま直進して側面に構えて横ざまに攻撃することもできますが、上記のケースでは先に仕掛けているのが自陣側なので、それに合わせて対応されてしまえば結局は後手後手になってしまい、最終的には勝機を逸してしまうことにもなります。つまりは、上記の図を見て理解できたかは知りませんが、戦い、ゲームというものは対等に対峙している状況とするならば常に先に仕掛けて先に動いたほうが勝ちというもので、そのためには常に相手よりも先に戦略を考えて戦術を打っておく必要がある、のです。先に戦術的手を打って動くには相手よりも戦略的に上回っていなければいけないのですが、それも地形など環境や状況を正確に分析、把握して情報的に優位に立っている必要があり、結局何かといえば、相手よりも詳しく細かく考えて先に動かなければならない、ということですから結局のところ戦いというものは先に手を打って、先に動いたほうの、勝ちなのです。かといって、じゃぁ先手を打っていれば負けることはないから何でも闇雲に先に動けばいいか、というとそうではなく、ちゃんと考えて動かないと相手に足をすくわれますし、色々なあり得るパターンを検証して自陣にとって一番効率的な手を「先に打つ」必要がありますから、それが戦いやゲームにおける、采配の能力というかゲーム的思考の速さ、ゲーム的能力そのもの、なのです。もちろん、戦いといえどゲームですので、この方法で一時的に勝ったとして大局はすぐに変わるわけではありませんが、それでもこれは戦い、及びゲームにおけるひとつの勝つ方法、として記憶に留めておいていただいても、損ではない、方法だと思います。      
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posted by skywalker at 14:01| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする