2016年09月08日

ゲームの極致と“臨機応変”という言葉の重み

今まで、散々ゲームの仕組みであったりとか陣形のことであったりとか、戦線の突破など書いてきたのですが、はっきりいいます、ゲームは状況に合わせて動くことこそ、全て、なのです。機に臨みて変に応ず、という臨機応変という言葉がある通り、結局ゲームの仕組みだとか構造だとか関係性だとかそれぞれ細かい事象を観ていっても、結局のところ今ある状況を観てどう動くか、というところにゲーム的力は集中してきている、のです。どういうことかというと、今の状況を観てどう動くか、という動くか、の部分に全てのゲーム的展開の可能性の根源はあるのであって、ゲームの一部あるいは一員である自分がどう動くか、によってそのゲームは動いて、いくのです。ということから考えますと、臨機応変、機に臨みて変に応ず、というのが兵法の最善、であってこのブログでいつぞや書きましたが、兵法での最強の陣形は“無形の陣だ”の通りその都度その場の状況、あるいは戦況に応じて陣形を変える、つまり状況に応じて、戦略的、あるいは戦術的に動くという点で臨機応変の概念とほぼ一緒のものである、ということなのです。ゲーム的選択性に全ての可能性がある、ということをこれまでもいくつか書いてきたかとは思うのですが、それ以上に、選択肢以上に今現在のある状況を観て、そこで判断して動く、というのはある意味ゲーム的極致であることはいうまでもありません。ゲーム“理論の”極致という意味ではゲーム理論というのは元々物事の選択性に対して最善の答えを数学的に導き出す、ことが目的なので、極致としてはあらゆる意味での万能の答えを、ということになるのでしょうが、仮にいえば、それはゲームがある、あるいは今現在(の存在)がある、ということであって、結局そのゲーム的函数から今現在ここの存在を導き出す、というのが一応数学的な意味での答え、なのではないのでしょうか。あらゆる選択性に対しての万能の答えを、といっておきながら実際はその選択性の如何が今現在のここに係っているので、そういう意味ではちょっとこけおどしのような感じもしますが、それでもゲームあるいはゲーム理論はその選択肢、あるいは手段のひとつであって、結局のところ道具なので、最終的に答えを導き出す、のはそのゲームのプレイヤー一人一人というか、そこにいる人間、一人一人であったりするのです。答えを示すといっておきながら、実際はその答えとは今現在問題を解決すれば……ということになるのですが、(それはそもそもゲームあるいはゲーム理論というものが手段あるいは選択性の科学であるから、最終的な答えはプレイヤー本人が求めていかなければならない、ということでもある)それでも選択性の如何そのものでゲーム的展開は変わる、というところは間違ってはいませんが、それでもなおかつ、ゲーム的選択性としての最善の答えは、手段>(乱数)選択性になるのでその都度今現在の状況を観て、自分の目的と整合性を持ちつつ、自分にとって最善の選択肢を取る、というところが一応の答え、なのではないのでしょうか?結局のところ、総括してしまえばゲームにしろ選ぶのは自分なので、今ある状況を的確に分析して、最善の答えを出していく、しかないのです。結局のところ、理論的に最善の答え、あるいはそれを導き出す、方法を考えついても最終的には、今そこにある人たちで、その都度判断していくしか、ないというのが究極の答えであり、ゲーム的極致、でもあるのです。
続きを読む
posted by skywalker at 10:35| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

戦線の突破とゲーム的進行-ゲームのルールと攻略

戦線の突破とゲームの関係性について、ですがまず初めにいいますと、いわゆるゲーム(戦争における戦い、スポーツなどのゲーム、あるいは駆け引きなど)と呼ばれるものは大抵の場合、いきなり極端な例えですが、相手の戦線を突破することで道が開けます。つまり、例えば戦争における戦いやあるいはそのゲーム、さらにそれを模したサッカーやアメリカンフットボールなどのスポーツにおいても、ゲームに勝つ、つまり攻略するには相手の戦線を突破しなければならない、のです。これは、ゲーム理論的に数式を使わずに単純にいうと、相手の戦線、つまり戦いなどでいえば陣構え、フォーメーションのライン、なのですがゲームに勝つ、攻略するにはゲームを展開させなければいけませんから、普通にゲームというものは押し合えばやがて膠着状態になってしまいますから(ゼロサムゲームでもある)、どこかでゲームを展開させなければいけない、のです。となると、相手の戦線を上手く廻り込むなどして巻き取らないといけませんから(大抵の場合スポーツなどの試合でもそうだが戦いにおける戦線というものは一直線で構成されている故に側面を衝かれると弱い)戦線単位で見て(だいたいここでの例えでは30〜50mほど、二列か三列の歩兵などの横列陣だと想定していただければ分かりやすいかと思うが)相手の戦線、つまり歩兵陣と自陣の戦線、歩兵陣が向かい合っているとして、戦況、つまりゲームを展開するには相手の戦線、戦列の横から廻り込まないといけない、のです。下記図参照↓
戦列図・フランキング.png
図にすると若干分かりやすいかと思いますが、戦列同士で対峙した場合は陸上戦の場合は敵戦列側面に廻り込むと効果的に、相手より優位に立てます。ちなみに海戦の場合は風向きにも移動が依存しますが基本的に敵戦列前方になります(よくある丁字砲撃)。かなり大ざっぱな説明になりますが、基本的にこの方法であれば敵戦列を突破できます(これに合わせて敵第一戦列が移動後の自陣第一戦列と斜めに方向を変えて対峙しても自陣第二戦列で横を取れるため。仮に敵第二戦列が前に出てきてもいいが、行進速度の関係だと両軍ともほぼ同じだとして自陣の第二戦列が前に出て前進するまで間に合わない。よって敵方の対応策としては第一戦列が少し下がり気味にスライドして自陣の第一戦線と対峙すると同時に、第二戦列が素早く守り気味に前に出ないといけない。そうでないとゲームにおいては仕掛けたほうが常に若干早いので、自陣の第二戦列にあっという間に前進後突っ込まれて、第一歩兵戦列がごちゃごちゃにされてしまう)。上記のケースだと、例えば中世の場合であれば敵側の第一戦列が自陣側の第一戦列のフランキングに対応しながら、陣形を方陣か円陣に変えて、敵と正面から向き合う面を増やすことも、できます。ただ、この場合も敵側第二戦列が素早く第一戦列の横をすり抜けて蛇行陣の状態で自陣第二戦列と向かい合わなければいけませんから、結局はそこからまともに立て直して相対するのも時間的に難しいですし、そのまま自陣側の第二戦列に対して蛇行陣のまま直進して側面に構えて横ざまに攻撃することもできますが、上記のケースでは先に仕掛けているのが自陣側なので、それに合わせて対応されてしまえば結局は後手後手になってしまい、最終的には勝機を逸してしまうことにもなります。つまりは、上記の図を見て理解できたかは知りませんが、戦い、ゲームというものは対等に対峙している状況とするならば常に先に仕掛けて先に動いたほうが勝ちというもので、そのためには常に相手よりも先に戦略を考えて戦術を打っておく必要がある、のです。先に戦術的手を打って動くには相手よりも戦略的に上回っていなければいけないのですが、それも地形など環境や状況を正確に分析、把握して情報的に優位に立っている必要があり、結局何かといえば、相手よりも詳しく細かく考えて先に動かなければならない、ということですから結局のところ戦いというものは先に手を打って、先に動いたほうの、勝ちなのです。かといって、じゃぁ先手を打っていれば負けることはないから何でも闇雲に先に動けばいいか、というとそうではなく、ちゃんと考えて動かないと相手に足をすくわれますし、色々なあり得るパターンを検証して自陣にとって一番効率的な手を「先に打つ」必要がありますから、それが戦いやゲームにおける、采配の能力というかゲーム的思考の速さ、ゲーム的能力そのもの、なのです。もちろん、戦いといえどゲームですので、この方法で一時的に勝ったとして大局はすぐに変わるわけではありませんが、それでもこれは戦い、及びゲームにおけるひとつの勝つ方法、として記憶に留めておいていただいても、損ではない、方法だと思います。      
続きを読む
posted by skywalker at 14:01| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

収束と分散-密集陣形と集団戦術の差分

収束と分散-密集陣形と集団戦術、ということですが収束と分散とは何のことを言っているのかといえば古典時代や中世からにおける陸上での戦い、ギリシアなどのファランクス(密集陣形ですね)然りローマの集団戦術然り中世の特にヨーロッパにおけるラインフォーメーションはたまたイスラム勢力の独特な有象陣形(丸みを帯びた陣形など有機的な象(かたち)の戦陣のこと)などなど古代から中世の人たちはいろいろな歩兵戦術を編み出してきました。もちろん、それらは時代や時の変遷とともに姿形を変え変わっていくものなのですが、その中でもひとつ、特徴的な共通点があります。それは、収束と分散という数学の一分野にもある通りの、極めて重要な数理的要素が陸上での戦い(以下陸戦、あるいは陸上戦)における歩兵戦術あるいは集団戦術の要素を左右していたのです。これはゲームの動向と特徴を分析したゲーム理論的に見ても明らかなことで、そもそも大まかな主なゲーム(スポーツ、あるいは陸戦における歩兵戦)において歩兵の集団である陣形がゲームの動向や勝敗を大きく左右していることは明らかなのです。その上で時代とともに人々はできるだけ損耗を出さずに比較的楽に相手に勝てる方法を常に模索してきたわけで、そのひとつが、というか陸上戦におけるその代表例が陣形、あるいは歩兵の集団戦術におけるその象(かたち)だったのです。陣形や歩兵集団の象がその戦いあるいはゲームにおける勝敗を左右するものであれば、そもそもそれらを磨けばゲームに勝てるというもので、比較的小さい力(レバレッジ)でその時々の戦局で重要な戦いで勝利できるのであれば、当然最小手数最大効率であるのでみんなこぞって研究するでしょう。そういう意味ではこの人類史上戦いにおける陣形や歩兵集団の象(かたち)は(戦いが避けがたいものである以上)人類のひとつの大きなテーマなのであり、そういう意味ではそこでの戦術的差分が人類史上を大きく分けてきたといっても過言ではありません。ということは陸上での戦いにおける歩兵戦術、あるいは陣形、集団の象こそが歴史を左右する大きな一要素になり得たのであり、そういう意味ではその数学的な見方である収束という分散という数理的な考え方はある意味戦いなどのそのゲームにおいてあるいはそれらを分析したゲーム理論において非常に大きな答えをもたらすことになるのです。

戦列図 収束と分散.png

陣形や歩兵の集団における収束と分散が戦いにおけるゲームの答えを導き出すと書きましたが、まさにその通りで陣形や歩兵の集団のひとかたまりの収束と分散、つまり密集するあるいは適度に分散して力を分散する、あるいはその密集度、どのくらいその象として歩兵の集団に力を与えるか、あるいは相手歩兵集団の力を受け止めて分散するのか、あるいは突撃するのか、広がって防御するのか、という点においては収束という分散という数学でいえば比較的単純要素に非常に大きく左右されているのです。つまり、収束、つまり歩兵集団がある程度密集してかたまれば、大きな集団を受け止める力は目減りしても反対に大きく広がった集団に突っ込む、突撃するには好都合ですし(極めて物理的な見方、話)反対に鶴翼の陣形などに代表される相手の陣形に対して大きく広がる、翼で包み込むような陣形を取るということは、大きな集団を受け止める、あるいは陣押ししながら弓などの射撃戦などで相手の戦力を目減りさせるのには好都合ですし、逆にそのままの広がった陣形で大きな相手の歩兵集団に突っ込むというのは物理的に不可能です。このように単純な密集陣形と分散陣形にもそれぞれ突撃と防御、あるいは攻撃と防御などといった力の分散と偏向などの極めて物理的な要素が絡んでくるのであり、そういう意味でも陣形や歩兵の集団同士の戦いにおいては収束と分散という数理的な要素が大きく絡んでくることが十分窺えると思います。逆に、集団と集団、数と数における陸上での戦いなどにおいては物理的、あるいは数学的要素が絡んでこないことはほぼまったく皆無であり、戦いなどゲームを分析したゲーム理論などでも(ゲーム理論も数学の複雑系の一分野、です)ある通り人間のやることほとんどすべてに数学的要素が絡んでくる、のです。そういう意味では分析と解析という視点からも陸上戦における歩兵の集団戦術や陣形などはゲームの分析には格好の対象であり、むしろ今回のようにそれらを分析することで数多の人類史上の事象から数学的、数理的要素を見出すことも、できるわけです。そういう意味では収束と分散というのは陸上での戦いにおける力のぶつかり合いなどにおいては非常に象徴的な数理であり、もし人類史上に代表されるそういった陸上での戦いなどのゲームにおいてそのような数理が証明されるのであれば、むしろ人間が起こしていくであろうあらゆる数の事象、またあるいはあらゆる分野の事象においてほぼすべてに共通するような事象を導き出せることはほぼ間違いありません。そういう意味では収束と分散という要素は人類史上においても大きな意味を持っているのであり、そういう意味ではたかが一戦いにおけるゲームの動向であってもその後の歴史に大きく関わって、くるのです。さて、そんなこんなでそろそろ締めたいと思うのですが、そろそろ結論にいきましょうかね。まず、収束と分散のところで話をした通り陸上での戦いにおいては歩兵集団の収束と分散が大きく戦局を左右するものである、と書きました。その上で、その収束と分散を大きくコントロールするものがその歩兵集団の象である陣形、だったのです。陣形にもいろいろありますが、その多くはその歩兵集団の収束と分散度を大きくコントロールするもの、だったのです。例えば収束すれば突撃しやすくなる反面、大きな歩兵集団に対して防御することは難しくなりますし、反対に鶴翼など分散すれば大きな歩兵集団と対峙するのには向いていますが、そのままの陣形で突撃することはできません。戦いとは引きすぎても弓などの射撃などで相手を捉えきることはできませんし、反対にちょっとでも突っ込みすぎるとそれこそ死地です。そういう意味では歩兵の差し引きである歩兵集団や陣形というものは非常に重要で、それを指揮官がコントロールするというのは前提にしておいてそれ以上に歩兵集団の象や陣形が戦いの行く末、あるいは戦局そのものを大きく左右するくらい重要な要素なのです。収束と分散においては広がりすぎると相手に突っ込まれた場合弱いですし、逆に密集し過ぎていると相手を大きく受け止めることはできません。戦いにおいては相手の二面を取ることこそが勝つ重要な要素、ですから(詳しくは「奇角」の項もお読みください)自分の一面あるいは一部局に対して相手のそれより多い面が面することはすなわち負けを意味します。そういう意味でも相手の一面と自分の一面がほぼ常に均等に釣り合うようにするのが安定して戦うための一つのコツで、それらの駆け引きが戦いというゲームの駆け引きにおけるすべてだと言っても過言ではありません。さて、結論に戻りますが収束と分散においては広がり過ぎると敵に面する一面の密度が下がり弱いですし反対に密集し過ぎても敵の一面がこちらに集中することになり効率よく戦えません。一見相手よりも広がれば強いようにも思えますがそれでは積極的に押し出されて突っ込まれた場合には全体の立ち回りだけで負けてしまいます。ということは戦いでもスポーツでもなんでもそうですが相手よりも多少、ほんの少しだけ密集、つまり収束していれば相手よりも強い、つまり負けないことになりそういう意味では相手よりも多少広がり過ぎただけで戦局だけからすると簡単に負けてしまうことになります。ここでは収束と分散という数理的視点のみから戦いを分析していますので、だいたいこういう結論になるのですが、収束と分散という視点からすると相手よりも比較的多少収束していればより効率よく力を発揮できることになり、そういう意味では戦いにおいては分散し過ぎないこと、あるいは過度に収束し過ぎないことが歩兵の集団戦や陣形において勝つコツだ、ということは言えそうですね。
続き(ほそく)
posted by skywalker at 13:32| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月07日

What's the utility?

ユーティリティーとは、ゲームのなどのシステムにおける、まぁ要はユーザー個々のオリジナリティ的な部分でもあるのですが、今日の話はまさにそれで、そのユーティリティがいかにゲームを象作っているか、またどのようにゲームは成り立っているのか、はたまたこれからのゲームは如何にあるべきか、ということについて書いていきたいと思います〜。珍しくITの分野ですねー。
ユーティリティについては解説した一通り通りですがまずゲームがどうあるべきか、という点に於いてです。電子的ゲームを構成しているのは主に二つがあって、ひとつはシステム、あるいは情報の部分です。ゲームの世界がリアルなものであるにしろ何にしろ、その世界に関する情報は重要ですからゲームとしてはこれがないと成り立ちません。ただ、もっとゲームにとって重要で、これがないと、というのがもう一つのユーティリティの部分、です。特に電子的なゲームのそれにおいてユーティリティとは何であるか、というのは先に解説した通り、なのですがまさしくゲームのオリジナリティそのもの、です。だいたい、ゲームというものは構造がこの世界では決まっているものなのですから、どれだけ見た目を変えようとどれだけ様式・方式を変えようとだいたいゲームの題材というものは変わりません。もちろん、それが既に実現している部分から持ってくるからそうなのですが、それ以上にプレイヤーが現状の確認、あるいはゲームに普遍性を求めるから、という理由もあるのです。つまりどれだけゲームの題材が変わろうとプレイヤーが求めるのはこの世界の普遍性とそう相違ないわけなのですから、そもそもゲームの場面のバリエーション、といっても限界があります。そこで、ではないですが登場するのがユーティリティにオリジナリティを持たせるという考え方で、そもそもゲームの設定であるユーティリティはまともなゲームであればプレイヤー個々によって違います。もしゲームの題材や場面がそう他のと大差ないのであれば、個々の設定でゲームを変えてしまえばいい、もちろんゲームの情報の部分は変える必要はないですしできませんが、それ以上にゲームの設定というユーティリティの部分をいじれるようにすることによって、ゲームそのものは変えなくてもいくらでもそのゲームのプレイの手段を拡張することができるのです。ユーザー個々によってそれぞれ設定が違うということはまったくリアルな情報のゲームにそれなりの多様性のあるユーティリティをセッティングことによって、見た目はまったく同じゲームながら個々によっていくらでも多様性を生み出すゲームにすることができるのです。大枠は変えずにシステムチューニングだけいじるという考え方ですが、この考え方なら他の同じ業界の違った作業にも応用できますし、当然違う分野にもシステム的な面では応用が利きます。ちょうど、ゲームのシステムは変えずにチューニングだけいじる、という考え方ですが、非常に簡単なことなのですがこれにやるだけでいくらでもゲームの有りようは変えられる、ということなのです。
最後になりますが、これからのゲームはどうなっていくと思いますか?もちろん、何でも高度化するのは結構なのですが、それ以上にこの世界という普遍的なテーマは変わることはないし、変える必要もないと思います。現状では電子的なゲームというのは現状のこの世界に付随する単なるシステムのひとつなのであって、現段階では決して独立した世界、ではありません。ただ、ゲームの変化の有り方によってはいくらでも簡単に仮想空間を造ることも可能なので、そういう意味では仮想現実と現段階のゲームの技術はちょっと違ったものかもしれません。しかしながら、ゲームの情報という世界そのものの部分については現状のゲームからでもいくらでも改造可能なものなので、ゲームの業界に関わる人には是非情報世界の構築という部分についてはやる気を出して、意欲的にやっていただきたいと思います。それから、ゲームのチューニングであるユーティリティの部分について、ですがゲームを作る上でむしろ自由に改造可能なのはこの部分だけでもあるので、そういう意味でもユーザーのプレイアビリティを段々と拡張していってほしいな、というようにも思います。
posted by skywalker at 18:54| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月17日

ゲームは守りの象(かたち)がすべて

ゲームは守りが全てです。ゲームというのはここでは、中世や近世の陸上での戦いからサッカー、チェス、野球、アメフトなど戦略性があり試合などの形式があるゲームすべてを指します。取引や駆け引きのあるものがゲームというのですが、中世から近世の陸上での戦いやあるいはそれらを模したチェス、あるいはサッカー、アメフトなどのスポーツはどれも力押しで到底なんとかなるものではなく一つ一つの駒や選手すべてにそれぞれの局面で戦略的な動きあるいはどう動くかという戦術面での技術が非常に要求されるもの、なのです。そんな中でも今日御紹介するのはそのゲームでの戦い方、というもので基本的にはゲームは守りが基本で、守りに始まって守りに終わる、というものだというのをまず再確認しておいていただきたいと思います。野球などの攻撃守備の入れ替えがはっきりしているゲームでは、なかなか直観で分かりづらいかもしれませんが、サッカーやアメフトならむしろ守りの陣形あるいは動きがその後のビルドアップというか攻撃への入れ替わり、組み立てに非常にスムーズに影響してくるものだ、というのはサッカーなどを一度はまともにプレイしたことのある人なら容易に分かることだ、というようにも思います。駆け引きをしながら陣形の入れ替わりや個々の動きを通じて全体で連動しながら動き、そしてゴールや得点など目標を達成してスコアを上げるものがゲームだと思うのですが、特にその中でもサッカーやアメフトなどでは特にそうですが守りの陣形やその動きから次なる攻撃の動きを作り出していくのがスポーツなどのゲームでは非常に特徴的になっています。これは中世や近世などのパイクや近接武器、弓・銃などの飛び道具あるいは騎馬などの装備、兵器などで行われる陸上での戦いでも同じで、確かに矢や銃弾などは一度当たったら命に関わるのはもともとなのですが、全体的に戦争などの戦いではまずその取り返しのつかなさから戦場での第一目標を「とにかくできるだけ全員が生きて帰ること」あるいは生き残ることを主目的に設定する場合がほとんどです。まぁ死んでしまっては意味がないからですがとにかくできるだけ多くの味方が生き残る戦術あるいは戦略を戦場の指揮官には求められるわけで、これをここではゲームとして捉えるのですがこれはスポーツなどのゲームでも同じでとにかくできるだけ味方に(失点や消耗など)損耗をもたらさずに如何にして上手く戦い、そしてできればスコアにて勝つか、というのがゲームの主な目的になってくるわけです。スポーツの場合は双方の優劣をスコアという目に見て分かり易い形で表すのですが、実際の戦場ではむしろスコアというほどはっきり結果が分かるものではなく、それひとつの戦いで全体の戦局が決まりづらいものでもあるので、基本的にはその継戦能力、つまりとりあえず一休みしつつできるだけ全体の戦局で戦い続ける力、あるいはその技術を至上命題にします。結局極論してしまえば戦争での戦いも単なる人殺しになってしまうので双方ができるだけ損耗を避けつつ継戦する余力を残しておく、というのが戦場での基本戦術になります。まぁ、生きて帰るにはこれくらいはしておかないといけないわけで、敵味方双方ができれば死にたくはありませんから、当然損耗を避けつつ、できるだけ早期に決着を着けるというのが戦争での優先目標になります。というわけでスコアで分からなくとも目に見えて、というか敵味方がなんとなく勝ち負けが決まったような空気が必要になってくるので、当然ある程度戦術などで勝ち負けが分かるような形にしなければなりません。というのでゲーム的動きが必要になってくるわけですし陣形や全体の戦局などでの「動き」で勝敗がある程度決まる必要があるのです。この「動き」に関してはスポーツも同じで、できるだけ最小の損耗で戦おうとすると陣形や個々の動きなどでの戦局で優劣を付けて、できるだけ相手よりも有利な形を作る、これがスポーツなどでもそうですがゲームの優先事項、となります。相手陣営よりも有利な「象(かたち)」であれば当然その後のゲーム運びが楽になりますから、当然勝てる可能性も高くなってくるわけで、基本的にサッカーやアメフトなどに代表される、「陣取り」ゲームになぞらえられるものはすべてこの共通点を持っていると言ってもいいでしょう。その上でその「象(かたち)」つまり陣形や全体の戦局などがゲームでは基本事項であり超重要事項なのですが、これを形作るのが陣形であり守りで、戦いでもなんでもそうなのですが、個々をつないだ隊列をある程度の布陣に並べてなるべく味方が損耗少なく効率的に戦える状況を作ることを目指します。戦場ではもっとも死んだら終わり、ですからそうならないようにある程度自然に「死ににくい」配置になっていくのはごく当たり前の成り行きなのですが、スポーツでもそれくらいの臨場感を持ってやってもらいたいもので、当然味方の損耗が最大限小さくなる配置が最も効率的に戦える配置となるのです。スポーツといえど損耗は生死に(?)いやいや、その日の試合の結果にはたまたその後のスポーツ選手人生に関わっていくわけですから、できるだけ最大限に抑えて戦いたいものなのですが、それでもゲーム的には損耗は抑えたほうが楽に、つまり有利に戦えるわけで、そういう意味では味方のペースコントロールそれから全体の戦局の運びがスポーツなどゲームでは一番重要になってくることだ、ということは言えることだ、というように思います。戦場では実際にはできるだけ早期に決着を着けることを求められる場合が多いので、例えば長引かせるよりもゲーム的に最小手数最大効率となる手を打って決着を着けるやり方が主に好まれるのですが、それは早く生きて家に帰りたいから、でスポーツの場合は一応一試合という枠の時間が決まっているのでその中でできるだけ最小の手数で最大効率で戦うことを求められるというのは実際の戦いとそういう意味では同じ、なのですがどちらかというとスポーツのほうがフェアな条件で行われる(そういうように仕向けられるから)場合が多いのでどちらかといえばお互いの手が出し尽くされて試合が終わって決着が着く場合が多いようにも思います。とにかく、そういう意味では試合つまりゲームのペースコントロールそれからできるだけ損耗を抑えつつ戦う必要があるということ、また一方ではゲームの展開の仕方あるいは戦術がほとんどすべて守りあるいは基本的な陣形からのほうが展開しやすい場合が多くあるので、そういう意味でも守りは重要なのですが、戦いはすべて陣形が基本、そして守りこそが戦いの基本である、ということは覚えておいてもらって損ではないと思います。確かに攻撃は最大の防御とはいいますが、それは明らかに味方のほうが敵方よりも戦力が上回っている場合の手で、劣勢の場合は必ずしもそうだとは言えませんからというかむしろその攻撃もゲーム的には守りの象(かたち)からしかスムーズに繰り出せないのでそういう意味ではゲームは守りがすべて、というわけなのです。護身術や武術でも同じで、守りの象からほんの少し手を繰り出して攻撃とする場合が多いので、そういう意味ではどんなゲームでもこの基本は同じなのだ、というように思います。それでは、また。(この記事は同管理人ブログより転載したものです)
posted by skywalker at 21:18| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする