2015年07月11日

オンラインゲームには意味がない。

はい、オンラインゲームには意味がありません。具体的に、何が意味ないのかといえば、オンラインで多人数でやるというところに意味がないのです。オンラインゲームを含め、ゲームに意味があるというのはあくまでそのゲームシステム、ゲームの構造論に意味があるのです。例えば、ある設定のゲームを最後までクリアすることによりその構造、システムが見えるつまりゲーム構造を上から俯瞰することによって、そのゲーム構造の突破の仕方あるいはそれを応用して他のゲーム構造の突破の仕方も分かってしまうからこそ、ゲーム構造の理解やゲームのクリアには、意味があるのです。従って、オンラインゲームの類で意味があるとすれば、そのゲーム構造(コンシューマーゲームでも一緒ですが)には意味があるのであってオンラインで多人数でやっているというのには、全く意味がありません。ネット上でオンラインで、多人数でやればやるほど増えていくのは「カオス」だけです。元々、オンラインゲームにしろ何にしろ、ゲームというものには構造論がありますから、その構造とそのクリア、突破がゲームの理論の系としては重要なのです。なのでゲームに関わらない部分のオンラインや多人数といった部分には何の意味もありません。オンラインゲームの実体には、ゲームの構造というシステムの部分がまず最初にあって、そこにデータや要素(要はカオス)をつぎ足していく過程には何の意味もないのです。重要なのはゲーム構造で、基本的にはゲームにはその後のデータ、つまり要素の部分にはほとんど意味がありません。ゲームの理論系としてはゲームの構造とさらに上の構造のみ重要なのであって、オンラインや多人数の部分には全く意味がないのです。なぜかというと、最初申したようにゲームの構造にこそゲームの意味があるからであり、そもそも電子的なゲームの存在意義(スポーツなどの有態ゲームも含む)はその(それを含め社会システムなどの)ゲーム構造を明らかにすることであり、そのために有態・無体、電子的なものも含めゲームに意味がある、と言うことができるのです。つまりゲームシステムやゲームの構造を明らかにすることに意味があるのであり、その他大勢の細かいデータや要素を再現するために要素を抽出するのにはまったく意味がない。つまりオンラインゲーム含めゲームというものは全くの中空で、構造というか骨組みだけあってまったく中身のないものなのです。なぜそうなのか、といえばゲーム自体もともとゲームの構造を明らかにするためのものだったのであり、オンライン含めそういうのは構造だけ明らかにできればよいのでそもそも中身のないものなのです。ゲーム構造とは社会システム含め大小のゲーム構造のことで、それを明らかにするために有態・無体のゲームはあるのです。なのでそのゲーム構造自体はまったくの中空だといわざるを得ない。元はといえば、ゲーム構造自体を明らかにするためのものだったのですから、ゲームの要素やデータの中身そのものには全く意味がないのです。まとめると、現実のゲームをクリア、解決するためにゲームは意味があるのです。しかも、それは主に意味があるのはゲームの構造・骨組みの部分にだけ、です。よく廃人という表現をしますが、あれは中身のない酒を飲んで酔っ払っているのと一緒で、まったく意味がないものをひたすらやり続けてしまうからこそ、そうなってしまう現象でもあるし要は無意味なものをやり続けている、つまり現実も知らないし現実を見ようともしていないのです。これほど批判しましたがゲームの意味があるのはそのゲームの構造・骨組みの部分のみ、です。オンライン、然りです。なおゲームの中身には意味がないというような書き方をしましたが、正確にはリアルのゲームの中身には多少の意味があるかもしれません。ただ、リアルにしろ仮想にしろ結局意味があるのはゲームの構造の部分のみで、実はゲームは中身をやり続けてしまうと一生そのシステムの奴隷になってしまう仕組みになっているのです。なのでゲームというものの構造というかそもそものそれ自体の目的というものは、「ゲームをクリアしてさらにその上のゲーム、構造を明らかにする、それを繰り返すことでやがて究極の部分のゲームから目が醒める」こういうことで、そこに意味があるのではないか、と思っています。だからこそ、ゲームの中身には意味がないというし骨組み、構造を見なければ意味がないともいいます。少なくとも、ゲームの構造という視点で見るならば、ゲームの構造の部分にのみ意味があるのです。従ってゲームの構造以外の部分には意味がありません。しかも、そもそも意味というのは自分で見出すものであって、他人に与えられた「意味」をそのまま鵜呑みにするわけにはいきません。構造の意味を鵜呑みにしてしまってはいけませんし、構造そのものも鵜呑みにしてはいけません。ここでいう究極とは、そのゲームの構造自体そのものを自分で造ってしまうことであり、自分がそのゲームの住人となるのです。そのためには構造を知らないといけませんし、そもそもその究極を達成した時点で、人としてやるべきことはある程度は達成されている、ともいえます。(あくまで、「ある程度」です)構造をクリアするためには構造そのものの構造をそもそも知っておく必要があるのですが、それ以上に構造を超えることが重要です。少なくとも、構造そのものにも意味がありません。あるのは、その構造を知ってその構造を超えることです。システム論、構造論が古くなってから大分経つと思いますが、それでもシステムを超えるためには未だに構造どうのこうのについて言わなくてはならない。構造どうのこうのも、そもそも構造を解決するためのものですが、いずれはその構造も解決して捨て去っていかなければならない。もう、人類が固定のものにこだわってそれを守り続ける時代は、とうの昔に終わったのです。これからは新しい時代です。そのためにも、今一度構造を超えてそれを捨て去る作業をしなければならない。そのためにも構造を知って説明しておく必要があるのです。構造は、過去のものです。しかしながら、それを説明するには構造を知ってそれを解決しなければならない。ゲームには意味がないですが、その構造を知るのには意味がある。いや、むしろ意味があるのはリアルのゲームのほうであって、その解決には意味があるのかもしれない。構造そのものには意味がなくても、その構造を超えることには意味があるかもしれないのです。他人によって作られた意味ではなく、自分で造った意味に生きるようになりましょう。そしたら、ちょっとは可能性が開けてるかもしれないのです。これは人類全体にも言えることですが、一人一人が新しい世界を切り拓いていかなければならないのです。そのためにも、古い構造の仕組みを知っておく必要がある。大切なのは、リアルであってパラレルワールドではない、のです。


追記

究極のことをいうと、ゲームの構造をクリアする、というのは考えるのをやめる、ことでもあります。単純なことを言ってしまうと、考えるのをやめた先の世界に本当の幸せがあるのであり、世でいう悟りも考えるのをやめた先にあるのです。その仕組みを具体的に解説すると、考えて計算量が上がる→構造ができる→知識がたまる→考えるのをやめる→悟る、という構造にあるのですが、そのためにはまず目の前のゲームをクリアしなければなりません。ゲームが上手い、ゲームをする能力というものはその解決能力のことであり、それ自体は現実世界でも通用する、あるいは超越的な能力を発揮できるものでもあります。ゲームの構造には意味があって、ゲームの中身には意味がないのです。
posted by skywalker at 14:18| 愛知 ☁| Comment(3) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これにかんしてすこしほそくしておくとだな、そもそも、なんのげーむてきしすてむやぜんたいのこうぞうをりかいせずに、たにんずうのMMOとかいうおんらいんげーむにきょうじているのは、いみがないっていうこったな。これが、なんでかっていうと、そもそもにほんのMMORPGとかいうかてごりのげーむがあまりにもできがわるいものがおおすぎた、というのはおいておいてだな、そもそもこうちゅうでかいてあるようにげーむというものは、にんげんかいにおいてはあるかてごりーの、あるものごととものごとのひとくぎりのじしょう、つまりよのなかにおけるげーむとよばれるしすてむを、りかいするためのものなんだよな。で、それがひとりでやるような、こんしゅーまーげーむとよばれるものや、せいぜいひつようなときにだけおんらいんにつないで、なんにんかでたいせんとかするような、まるちぷれいやーもーどというつかいかたなど、あくまでそのきかいのげーむてききのうというものがぜんていの、そういったげーむであれば、ぜんじゅつのとおりよのなかのげーむしすてむをりかいするためのものだから、なんらもんだいないんだよな。で、それがさっこんのとくににほんをにぎわすMMORPGとかいういちぶではむりょうでできるものもある、しかもたいていはつくりこみのあまい、できのわるいげーむとなると、そのきかいてききのうせいとしての、げーむとしてのきのうをていきょうすることはおろか、げーむとしてのちしきたいけいをりかいさせるまでおよばないような、そんないわゆるなかみのないげーむがにほんではばっこしてしまっている、というのがすくなくともいままででのげんじょうなんだよな。いや、たしかに、これがげーむとしてもうすこしできがよければ、げーむをりかいするといういみのうえでのげーむてききのうと、そのほうめんのちしきをりかいするためのじょうほうめでぃあのだいたいとしてのきのうもそきゅうできるんだが、そもそもにほんではぜんじゅつのとおりそのげーむのできがわるいからな、とくにいままでのはそのきのうもみたしていないものが、すごくおおかったんだよな。で、おうべいのとはいうと、こあゆーざーなんかはしみゅれーしょんとかのこんしゅーまーとしりあいやともだちとかのまるちぷれいやーをうまくくみあわせているし、(にほんとちがうのは)MMORPGというものにたいしてあまりまにうけていないからな。たいして、そこまできのうてきにげーむのしくみやしすてむとしてはってんしてこなかったにほんふくめあじあけんなんかでは、さっこんはMMORPGとかいうのがひじょうにもういをふるっているんだな。つまりだ、あじあけんではきほんてきにこまかいつくりのあまいしすてむてきにそやなげーむが、むりょうやあいたじかんをつぶせる、などといったあまりつりことばをだしに、むさくいにしゃかいてきにばらまかれる、といったようなしゃかいしすてむてきにみてひじょうにおろかなげんきょうがげんしゅつしてしまっている、んだよな。けっきょくのところ、げーむとはなにかといったら、ほんらい、こんぽんはよのなかのげーむしすてむや、しゃかいてきしくみをりかいするためのどうぐであるのだから、ただ、なにもしすてむをりかいせずに、それでいてむさくいにえらばれたおおにんずうでやるしようにげんきょうではなってしまっているものだから、けっきょくげーむとしてのきのうもみたしていなければ、げーむにさいていげんひつようなものもみたしていない、っていうことになるんだよな。けっきょくのところ、かいがいせいのとかこんしゅーまーやひとりでやるようなしみゅれーしょんのほうが、よっぽどこうりつというかできがよくなってしまっているんだよな。
Posted by すかい at 2017年12月03日 16:50
んまぁ、こんなわけでいくらMMOやたにんずうおんらいんをうりにしていてもだな、げーむそのもののしすてむやきのうとしてのできがわるければ、なにやってもむだというほどにいみがないものになってしまいかねないんだが、はんめん、げーむのこうぞうやよのなかのしすてむとしてのしくみをいちどはほぼすべてをりかいしたうえでやるのなら、おんらいんRPGというせんたくしは、このうえないひまつぶしにもなりうる、ということは、ひとつちゅうしておこうとおもう。これが、なぜかというと、そもそも、にんげんがなぜおんらいんRPGのようなげーむをやりたがってしまうのか、というと、こんげんてきに、げーむというものにたいしては、つねにげんじつてきりすくがたいどうしないじょうたいで(つまり、いわゆるかそうってやつだな)、げんじつとほぼおなじかにたようなせかい、できごと、じしょうをかそうてきにしみゅれーとしたい、というよっきゅうがつねににんげんにはそんざいするんだよな。で、だったら、おんらいんRPGのようなものでもいいじゃん、というけつろんにもなるのか、というはなしになりそうなんだが、まぁちょっとまってくれ、どんなげーむでもそうなんだが、まずげーむのしくみとか、ぜんたいのしすてむをあるていどひとまわりほぼすべてをりかいしたうえでなら、あるていどはどれだけやってもまったくむがいどころか、げんじつくうかんをいきるいみでもたすけになるんだぞ、ということはかいておくぞ。みそとしては、ぜんたいのこうぞうやしすてむとしてのしくみをあらかじめりかいしているか、どうか、というてんで、そのぶん、こんしゅーまーげーむとかふつうのRPGなんかはさいきんのはちゅーとりあるもしっかりしているし、ひととおりやればぜんたいのしくみやしすてむがどうなっているのか、というのもあらかたりかいできるようにできているものが、ほとんどだよな。で、それがMMOとかおんらいんのばあいだと、げーむとしてのこうぞうをりかいしないままにほうりこまれたり、あるいは、おんらいんうたっておいて、まったくべっこのせかいのあつかいで、たにんずうぷれいでもない、というひじょうにげーむとしてもそやなものもみうけられるんだが、とまぁ、さっこんでは、そのげーむのさいていげんのきのうとしてのしくみもみたしていないような、そんなげーむがたたみうけられるのがげんじょうなんだが、ぎゃくに、そういうふうだとFPSとかのまるちぷれいやーもーどとかをやっていたほうが、あくまでそっちではどれもみんなさいしょはいちへいしだし、ぎゃくにりあるなRPGのようなものでもある、というみかたもできなくはないよな、まぁ、それはそれでうちあいだけしてても、さいしゅうてきにむいみだ、ということになってしまうと、それはそれでそれまで、なんだが、それでもそのいみではげーむてききのうはみたしてはいる、よな。まぁ、とにかく、げーむとしてのこうぞうやしすてむてきしくみをりかいしていれば、そもそもMMOどころかどんなげーむをやってもあるていどのおんけいをげんじつくうかんにもたらすことができるんだが、ようは、げーむのぜんたいのこうぞうをりかいしているかどうか、っていうこったな、そのうえで、おんらいんげーむをかそうくうかんとしてりようするのであれば、まぁさいしょからちゃんときのうすることにはなるぞ、ということだけはかいておこうとおもうぞ。まぁ、くりかえしになるが、ぜんたいのこうぞうやしすてむとしてのしくみをりかいしていなければ、さいしょはなにやってもいみがない、というこったな。どんなことでもそうなんだが、まぁ、それがげーむではとくにもろにえいきょうがでるんだが、ぜんたいのしくみをりかいしないといみがないんだぞ、そのうえで、たのしむんであれば、まぁきのうてきになるぞ、ということはかいておくぞ。
Posted by すかい at 2017年12月03日 17:11
まとりっくすなんかでもそうだよな、ただたんにそのたにんずうぷれいのげーむにきょうじているだけではいみがないんだが、ぜんたいのしすてむてきしくみやこうぞうをしることで、しすてむてきこうぞうからじゆうになって、さらにはそのせかいのしんじつをしる、ところまですすめるからな。ひとえに、じんせいにおいては、しすてむからじゆうになれるかどうか、というてんが、ひじょうにおおきなぶぶんをしめているな、というようなことはつねづねおもうぞ。まぁ、それがえいがですでにでているんで、げんだいのにんげんには、すでにかなりのかいけつさくがていじされている、というようなこともいえるけどな。
Posted by すかい at 2017年12月03日 17:18
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