2014年10月18日

商人が商人であるためには。

商人が商人であるためには、ということだが
まず、ざっと主張を述べておこう。

商人は、商人でなければならないのである。
また、モンテスキューの「法の精神」にあるように
「君公は商売を営んではならない」のごとし
商人は商人であるがゆえに意味があるのである。

君公が商売を営んではならない、のは
商人には商人にしかできない分があるためである。

もし、商人が経済学者や悪徳銀行家のような金融学まみれの
ことをやったら、必ず経済は破綻するのだ。

ちと大げさかもしれないが、基本的にはこの手の論は
ヨーロッパの近代に起点を置く。
詳しくは、「近代ヨーロッパの誕生-オランダからイギリスへ」/玉木俊明著
などを参照されたい。

では、具体的に商人が分を守るとはどういうことなのか。
これは簡単である。
商人らしいことをしていればよいのだ。

商人は、大きくなると必ず実業家のようになる。
だんだん自分のタスクは減り、管理する側に回るのである。

ただ、商人が商人らしい帆船で商品を運ぶ、ことをしていれば
基本的には、そう儲けは大きくならないし、儲けが出たとしても
投資に回るのがオチである。

システム論的にいえば、スウェーデンの鉄鋼業のような
大規模事業は、全部“仕組まれて”行われたものである。

アムステルダムの商人が起こした、とはいえ
ベースにはるのは、やはり基盤となる根拠や理論があってからこそ、
である。

まぁ、要は理論がしっかりあれば経済システムは作れるのである。
ただ、商人が事業を起こしても実業家となるだけだが、
これに経済学などの理屈が入ってくるとただのシステムではなくなる。

商人は儲けの分を守っているから、商人としてやっていけるのであり、
これが金融学まがいの投機を始めたら、たちまち儲けのバランスは壊れてしまう。

早い話、空(くう)の精神こそ、帆船時代の商人を支えていたものであり、
儲けを求めて規模を拡大すれば、たちまち経済全体のバランスは崩れてしまう。

その手の方には常識かもしれないが、バランスというのはそこまで大事なのである。
商人が商人らしい分を守っていれば(要は分を守っていれば、儲かるも儲からないも
八卦ということである)少しずつ儲けることができるのであるが、

これが規模を拡大した瞬間、もう全体のバランスを変えるぐらい変動が起こるのである。
もちろん、このバランスという考え方自体は「バランスがあるから、バランスを保たなければ
ならない」という一種のバランス論なのであるが(一種のゼロサムゲームとも)、

経済や、システムなくして商人が交易できるか、というと
果たしてそうではない。

北海のニシン漁にしろ捕鯨にしろバルト海のライ麦交易にしろ、
全部基盤となる理論がありシステムがあって、それで儲けを為すのである。

もっとも、交易と経済システムでは行為と理論という時点で若干隔たりの感があるが、
手っ取り早くまとめると経済理論やシステムがあって交易が成り立つのである。

これは、交易品なくして交易ができるか、という理屈で
終わりである。

交易原理に遡ると、やや話が難しくなるが
要は売りたい・買いたいという欲があって交易は成り立つである。

論は飛ぶが商人らしい商人というのは「交易」をやる商人なのであって
経済システムのような大規模なことをやってのけるのはもはや
商人ではなくて、事業家である。大規模な事業とは、要は
国家の事業である。つまり経済システムである。

つまり、この時点で交易と経済システム、商人と事業家は分けなければならない。
ただ、商人の大きくなったものは実業家であるわけだから、
商業と経済は確かに結びついたものであることに変わりはない。

単純にいうと、事業家のやる「投機」は経済のバランスそのものを
変えてしまうものでもあるため、単純にバランス論を守るなら
やはり交易なのである。商人のやる「交易」は言ってしまえば
下々の単なる物流であるわけであるがそれがなくては経済は動かない。

重点は、経済を動かしているのが、システムなのか、物流・動きなのか
ということになってしまうが、これではちと水掛け論の感がいなめない。

整理すると、論理では「システムはそもそも物流の流れまでを制御においた
それを想定済み・設計済みの論理である」ともいえるわけだし、

自然発生論的には交易などの物流の流れがあるからこそ、流れは発生し
経済は成り立つ、という考え方もできる。

他には、インフレーションなどの熱力学的要素で経済が成り立つ、
ということもいえよう。これは専ら、経済を生物学的な見方をした際に
際立ってくる考え方ともいえる。

まぁ、単純にいってしまえば
システム論に立って言うなら経済システムは近代のものであるし
それに類似するシステムが古代〜中世において観察されたとしても、
それは自然発生的に起きた、あるいは流れでそうなった、と考えざるをえない。

もっとも、これは論が実に続いて構成されるがごとく、
後付け的に論理が近代にできた、ともいえる。そうしてしまえば、まさにそうなのである。

自然発生的な交易について述べるのなら、まさに交易原理そのものである。
単純にいってしまって、ただ売買がしたかったから交易が成り立った、というものである。

最初の交易は物々交換から始まった、ともいわれているが
実際、近代に至るまでの特に異境での交易はほとんどすべて物々交換である。

こうなると、交易原理がほんの近代にまで引き継がれていたことが見て取れる。
また、経済システム論理の成立とともにそれが潰された、とも見て取れる。
これは、経済システムが理論化したために、単純に利潤本位になって
等価交換である物々交換の交易原理が潰された、のである。
商人が商人であれば、分を守れていたものが事業家や金融家になってしまうと、
もうどうにもシステムがシステムであるがゆえの重みからは逃れられないのである。

まぁ、こう言ってしまうと、経済システムはいつか自壊するものだ、という論にも
なってしまう。

確かに、システム論がシステム論であるがゆえの論法になってしまうが、
バランス・分を守っていればシステムは維持・守れるのである。

下手に増長して、システム上のインフレーションを起こせば必ずいつかは
自壊に向かう、というのは見え透いたこと、である。

数学の、不完全性定理にあるように、システムはいつかは崩れる、のである。
ただ、分を守っていれば、「システム論上は」バランスを守れるというのは、
システム論ならではである。

これをどう取るかは、それぞれ次第だと思うが、
完璧なシステム論などない、というのがひとつの帰結だと思う。

そうなると、バランスを守る、というのはひとつの重要なことでもあるように
思えてくる。

もちろん、商人でそれをいえば「交易」という等価交換のツールで
流れを作り、また自然発生論的に経済を作る、ということであるのである。

交易原理に則れば、これが自然な経済だと思うのだが、
どういう未来を地球上で迎えたいのかは、それぞれ次第だと思う。(終)
posted by skywalker at 11:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: