2016年08月28日

ちょっとへんてこりんな問題

ちょっとへんてこりんな問題です。皆さん色々な意味でついてこれるかな?

1.Aは真である。Bは偽である。Cは真である。Dは偽である。

2.Aは偽である。Bは真である。Cは偽である。Dは真である。

3.AとCが真であるとき、B、Dは偽である。またBとDが偽であるとき、A、Cは真。

4.AとCが偽であるとき、B、Dは真である。またBとDが真であるとき、A,Cは偽。

さて、この4つの命題のうち、正しいものはどれでしょうか?また、間違っているものがあるとしたら、はたして何なのでしょうか?この問いは謎かけです。分かる人だけが解けます。分からない人には解けません。分からない人はお帰りください。頭の容量を無駄遣いするだけです。分かる人は、勘でお答えください。その答えが、あなたの扉を開くでしょう〜。(解答はコメント欄にお願いします。分からない場合は無理して答えなくて大丈夫です。分からなくても、大丈夫です。その扉を開けたときに、答えは分かります。)
posted by skywalker at 10:37| 愛知 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | クイズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

達成度と到達度に関する質問(簡単な調査)

ちょっと質問いいですか?誰にでも当てはまることだと思うけど選択性の研究する上では重要なことなので〜。

次のうちどちらかを選んでください(経験ない場合は勘で)

利益が出ていてもそう満足感は得られない交易、か
利益はそれほどまでに出ていなくても十分に満足感が得られる交易

もうひとつ、

満足感や名声は得られなくてもデカい敵を海事で倒した時の到達感
たとえ相手に完全に打ち勝つことができなくても満足感や名声が得られる戦闘

さらにもう一個

皆に認められるような割と誰もが知っていてかつ到達困難な冒険か
誰に認められるか分からないけどまさかと思うような身近な発見物

以上です、余裕があったら答えてね〜
何かをしていて割と達成度と呼べるものでも意外と皆に認められるものって、少ないんです。自分で到達するのを良しとするか、他人に認められるのを良しとするか。皆に廻す必要はないので勘で答えてみてください〜。サンプルはひとつか二つあれば十分です〜。(自ブログに転載したので何人お答えいただいても大丈夫です〜、回答はコメントにお願いします〜)
posted by skywalker at 10:46| 愛知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | アンケート・調査 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

収束と分散-密集陣形と集団戦術の差分

収束と分散-密集陣形と集団戦術、ということですが収束と分散とは何のことを言っているのかといえば古典時代や中世からにおける陸上での戦い、ギリシアなどのファランクス(密集陣形ですね)然りローマの集団戦術然り中世の特にヨーロッパにおけるラインフォーメーションはたまたイスラム勢力の独特な有象陣形(丸みを帯びた陣形など有機的な象(かたち)の戦陣のこと)などなど古代から中世の人たちはいろいろな歩兵戦術を編み出してきました。もちろん、それらは時代や時の変遷とともに姿形を変え変わっていくものなのですが、その中でもひとつ、特徴的な共通点があります。それは、収束と分散という数学の一分野にもある通りの、極めて重要な数理的要素が陸上での戦い(以下陸戦、あるいは陸上戦)における歩兵戦術あるいは集団戦術の要素を左右していたのです。これはゲームの動向と特徴を分析したゲーム理論的に見ても明らかなことで、そもそも大まかな主なゲーム(スポーツ、あるいは陸戦における歩兵戦)において歩兵の集団である陣形がゲームの動向や勝敗を大きく左右していることは明らかなのです。その上で時代とともに人々はできるだけ損耗を出さずに比較的楽に相手に勝てる方法を常に模索してきたわけで、そのひとつが、というか陸上戦におけるその代表例が陣形、あるいは歩兵の集団戦術におけるその象(かたち)だったのです。陣形や歩兵集団の象がその戦いあるいはゲームにおける勝敗を左右するものであれば、そもそもそれらを磨けばゲームに勝てるというもので、比較的小さい力(レバレッジ)でその時々の戦局で重要な戦いで勝利できるのであれば、当然最小手数最大効率であるのでみんなこぞって研究するでしょう。そういう意味ではこの人類史上戦いにおける陣形や歩兵集団の象(かたち)は(戦いが避けがたいものである以上)人類のひとつの大きなテーマなのであり、そういう意味ではそこでの戦術的差分が人類史上を大きく分けてきたといっても過言ではありません。ということは陸上での戦いにおける歩兵戦術、あるいは陣形、集団の象こそが歴史を左右する大きな一要素になり得たのであり、そういう意味ではその数学的な見方である収束という分散という数理的な考え方はある意味戦いなどのそのゲームにおいてあるいはそれらを分析したゲーム理論において非常に大きな答えをもたらすことになるのです。

戦列図 収束と分散.png

陣形や歩兵の集団における収束と分散が戦いにおけるゲームの答えを導き出すと書きましたが、まさにその通りで陣形や歩兵の集団のひとかたまりの収束と分散、つまり密集するあるいは適度に分散して力を分散する、あるいはその密集度、どのくらいその象として歩兵の集団に力を与えるか、あるいは相手歩兵集団の力を受け止めて分散するのか、あるいは突撃するのか、広がって防御するのか、という点においては収束という分散という数学でいえば比較的単純要素に非常に大きく左右されているのです。つまり、収束、つまり歩兵集団がある程度密集してかたまれば、大きな集団を受け止める力は目減りしても反対に大きく広がった集団に突っ込む、突撃するには好都合ですし(極めて物理的な見方、話)反対に鶴翼の陣形などに代表される相手の陣形に対して大きく広がる、翼で包み込むような陣形を取るということは、大きな集団を受け止める、あるいは陣押ししながら弓などの射撃戦などで相手の戦力を目減りさせるのには好都合ですし、逆にそのままの広がった陣形で大きな相手の歩兵集団に突っ込むというのは物理的に不可能です。このように単純な密集陣形と分散陣形にもそれぞれ突撃と防御、あるいは攻撃と防御などといった力の分散と偏向などの極めて物理的な要素が絡んでくるのであり、そういう意味でも陣形や歩兵の集団同士の戦いにおいては収束と分散という数理的な要素が大きく絡んでくることが十分窺えると思います。逆に、集団と集団、数と数における陸上での戦いなどにおいては物理的、あるいは数学的要素が絡んでこないことはほぼまったく皆無であり、戦いなどゲームを分析したゲーム理論などでも(ゲーム理論も数学の複雑系の一分野、です)ある通り人間のやることほとんどすべてに数学的要素が絡んでくる、のです。そういう意味では分析と解析という視点からも陸上戦における歩兵の集団戦術や陣形などはゲームの分析には格好の対象であり、むしろ今回のようにそれらを分析することで数多の人類史上の事象から数学的、数理的要素を見出すことも、できるわけです。そういう意味では収束と分散というのは陸上での戦いにおける力のぶつかり合いなどにおいては非常に象徴的な数理であり、もし人類史上に代表されるそういった陸上での戦いなどのゲームにおいてそのような数理が証明されるのであれば、むしろ人間が起こしていくであろうあらゆる数の事象、またあるいはあらゆる分野の事象においてほぼすべてに共通するような事象を導き出せることはほぼ間違いありません。そういう意味では収束と分散という要素は人類史上においても大きな意味を持っているのであり、そういう意味ではたかが一戦いにおけるゲームの動向であってもその後の歴史に大きく関わって、くるのです。さて、そんなこんなでそろそろ締めたいと思うのですが、そろそろ結論にいきましょうかね。まず、収束と分散のところで話をした通り陸上での戦いにおいては歩兵集団の収束と分散が大きく戦局を左右するものである、と書きました。その上で、その収束と分散を大きくコントロールするものがその歩兵集団の象である陣形、だったのです。陣形にもいろいろありますが、その多くはその歩兵集団の収束と分散度を大きくコントロールするもの、だったのです。例えば収束すれば突撃しやすくなる反面、大きな歩兵集団に対して防御することは難しくなりますし、反対に鶴翼など分散すれば大きな歩兵集団と対峙するのには向いていますが、そのままの陣形で突撃することはできません。戦いとは引きすぎても弓などの射撃などで相手を捉えきることはできませんし、反対にちょっとでも突っ込みすぎるとそれこそ死地です。そういう意味では歩兵の差し引きである歩兵集団や陣形というものは非常に重要で、それを指揮官がコントロールするというのは前提にしておいてそれ以上に歩兵集団の象や陣形が戦いの行く末、あるいは戦局そのものを大きく左右するくらい重要な要素なのです。収束と分散においては広がりすぎると相手に突っ込まれた場合弱いですし、逆に密集し過ぎていると相手を大きく受け止めることはできません。戦いにおいては相手の二面を取ることこそが勝つ重要な要素、ですから(詳しくは「奇角」の項もお読みください)自分の一面あるいは一部局に対して相手のそれより多い面が面することはすなわち負けを意味します。そういう意味でも相手の一面と自分の一面がほぼ常に均等に釣り合うようにするのが安定して戦うための一つのコツで、それらの駆け引きが戦いというゲームの駆け引きにおけるすべてだと言っても過言ではありません。さて、結論に戻りますが収束と分散においては広がり過ぎると敵に面する一面の密度が下がり弱いですし反対に密集し過ぎても敵の一面がこちらに集中することになり効率よく戦えません。一見相手よりも広がれば強いようにも思えますがそれでは積極的に押し出されて突っ込まれた場合には全体の立ち回りだけで負けてしまいます。ということは戦いでもスポーツでもなんでもそうですが相手よりも多少、ほんの少しだけ密集、つまり収束していれば相手よりも強い、つまり負けないことになりそういう意味では相手よりも多少広がり過ぎただけで戦局だけからすると簡単に負けてしまうことになります。ここでは収束と分散という数理的視点のみから戦いを分析していますので、だいたいこういう結論になるのですが、収束と分散という視点からすると相手よりも比較的多少収束していればより効率よく力を発揮できることになり、そういう意味では戦いにおいては分散し過ぎないこと、あるいは過度に収束し過ぎないことが歩兵の集団戦や陣形において勝つコツだ、ということは言えそうですね。
続き(ほそく)
posted by skywalker at 13:32| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月07日

What's the utility?

ユーティリティーとは、ゲームのなどのシステムにおける、まぁ要はユーザー個々のオリジナリティ的な部分でもあるのですが、今日の話はまさにそれで、そのユーティリティがいかにゲームを象作っているか、またどのようにゲームは成り立っているのか、はたまたこれからのゲームは如何にあるべきか、ということについて書いていきたいと思います〜。珍しくITの分野ですねー。
ユーティリティについては解説した一通り通りですがまずゲームがどうあるべきか、という点に於いてです。電子的ゲームを構成しているのは主に二つがあって、ひとつはシステム、あるいは情報の部分です。ゲームの世界がリアルなものであるにしろ何にしろ、その世界に関する情報は重要ですからゲームとしてはこれがないと成り立ちません。ただ、もっとゲームにとって重要で、これがないと、というのがもう一つのユーティリティの部分、です。特に電子的なゲームのそれにおいてユーティリティとは何であるか、というのは先に解説した通り、なのですがまさしくゲームのオリジナリティそのもの、です。だいたい、ゲームというものは構造がこの世界では決まっているものなのですから、どれだけ見た目を変えようとどれだけ様式・方式を変えようとだいたいゲームの題材というものは変わりません。もちろん、それが既に実現している部分から持ってくるからそうなのですが、それ以上にプレイヤーが現状の確認、あるいはゲームに普遍性を求めるから、という理由もあるのです。つまりどれだけゲームの題材が変わろうとプレイヤーが求めるのはこの世界の普遍性とそう相違ないわけなのですから、そもそもゲームの場面のバリエーション、といっても限界があります。そこで、ではないですが登場するのがユーティリティにオリジナリティを持たせるという考え方で、そもそもゲームの設定であるユーティリティはまともなゲームであればプレイヤー個々によって違います。もしゲームの題材や場面がそう他のと大差ないのであれば、個々の設定でゲームを変えてしまえばいい、もちろんゲームの情報の部分は変える必要はないですしできませんが、それ以上にゲームの設定というユーティリティの部分をいじれるようにすることによって、ゲームそのものは変えなくてもいくらでもそのゲームのプレイの手段を拡張することができるのです。ユーザー個々によってそれぞれ設定が違うということはまったくリアルな情報のゲームにそれなりの多様性のあるユーティリティをセッティングことによって、見た目はまったく同じゲームながら個々によっていくらでも多様性を生み出すゲームにすることができるのです。大枠は変えずにシステムチューニングだけいじるという考え方ですが、この考え方なら他の同じ業界の違った作業にも応用できますし、当然違う分野にもシステム的な面では応用が利きます。ちょうど、ゲームのシステムは変えずにチューニングだけいじる、という考え方ですが、非常に簡単なことなのですがこれにやるだけでいくらでもゲームの有りようは変えられる、ということなのです。
最後になりますが、これからのゲームはどうなっていくと思いますか?もちろん、何でも高度化するのは結構なのですが、それ以上にこの世界という普遍的なテーマは変わることはないし、変える必要もないと思います。現状では電子的なゲームというのは現状のこの世界に付随する単なるシステムのひとつなのであって、現段階では決して独立した世界、ではありません。ただ、ゲームの変化の有り方によってはいくらでも簡単に仮想空間を造ることも可能なので、そういう意味では仮想現実と現段階のゲームの技術はちょっと違ったものかもしれません。しかしながら、ゲームの情報という世界そのものの部分については現状のゲームからでもいくらでも改造可能なものなので、ゲームの業界に関わる人には是非情報世界の構築という部分についてはやる気を出して、意欲的にやっていただきたいと思います。それから、ゲームのチューニングであるユーティリティの部分について、ですがゲームを作る上でむしろ自由に改造可能なのはこの部分だけでもあるので、そういう意味でもユーザーのプレイアビリティを段々と拡張していってほしいな、というようにも思います。
posted by skywalker at 18:54| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする