2015年11月27日

これからは「グローバル化」ではなく、「ローカル化」が来る!

これはどういうことかと言いますとねぇ、簡単にいうと、グローバル化の時代はもう「終わった」のです。というか、終わったというより、ピークはもう過ぎたのです。具体的にいうとヨーロッパ各国の海外の植民地化の時代から産業革命の時期ごろまでに、グローバル化はもう完成し、先ごろのリーマンショックのあたりでもう完全にグローバル化は「終わった」のです。金融や権力、欧米の勢力の歴史に詳しい方にはもうお分かりかもしれませんが、グローバル化を定義するなら「拡張主義」なのです。で、その「拡張主義」はもう産業革命から第一次大戦の頃までに終わっています。第一次大戦と第二次大戦はそのまったくの拡張主義が行き詰まり、自爆するという象徴的な動きでした。つまり、その「拡張主義」はもう「終わった」のです。正確にいうならば、第二次大戦後からついさっきの現代に関して言えば、「金融」の拡張主義、グローバル化の時代だったのです。つまり、主たる勢力争いのゲームはとっくに終わり、金融という実体経済とはかけ離れたもはやどうでもいい部分でのグローバル化のことをマスメディアはついこの間まで声高らかに謳っていた、のです。ついこの間、というのは終わったのが明らかになった以上もうこれ以上グローバル化を謳うことはできない、というわけだからです。まぁ、これは権力者にとってもマズい話ではないですしだいたい大方は大方の予想通りでしょう。でないと、長いこと世界を牛耳る(仕切る)ことはできませんからね。で、どうなるのか、といいますと経済のグローバル化はヨーロッパの植民地進出時代から産業革命までにすでにほぼ完成したといっていいわけですから、経済面で見れば残るは経済のローカル化、というわけです。つまり、最近マスメディアで頻繁に聞かれることかと思いますが地域経済の活性化、つまりそのものなのです。ローカル化というと日本では悪いイメージも付くことが多いかと思いますが、経済が一旦メタまで拡張したので、今度行き着く先はローカルなのです。経済学でいえばメタで起こり得る、証明できたことはローカルでも証明し得る、つまりマクロで起こり得る、起こった、証明したことはミクロでも実証し得るわけですから、ここで大きい経済・小さな経済という言葉が成り立つと思います。つまり、経済の規模・地域性は違えといえど、大きい部分でも小さい部分でも経済の仕組みは同じ、と取ることができますから、結局は大きな経済の論理がそのまま小さな(地域の)経済に応用が利く、ことになるのです。こう難しくいうとややこやしいですが、まぁ簡単にいってしまえば経済は規模が違えど仕組みは同じなのだから、大きいものの論理を小さい地域経済に当てはめてしまえばより効率よく、しかも有効な地域経済圏がたくさん、ひとつかみのエリアに限りなく最大効率でできる、のです。
有効な地域経済圏が増えるとなれば、人口と物的リソースで見た総リソースの割合は時代ごとに変わりませんから、いくらでも利益を生み出せることになります。しかも、このモデルのミソは「最大効率化」ですから、人的も物的リソースも無駄遣いしていません。簡単にいえば、最大効率化すれば生産性が大幅に上がるわけですから、ローカル化は強いです。まぁ、このくらいは当たり前かな、と思っている方は多いと思いますが、それくらい簡単な「ローカル化」で経済は大幅に豊かになり得る、のです。しかも、今までの日本のような物的資源であふれて豊かになる、という意味での豊かさではなく、幸福度も、地域の生産性も、産業の活性度も一度に保証できるモデルなので、「グローバル化」に飽いた世界には「ローカル化」がちょうどよい、のです。しかも前の時代に問題だった、地域間格差も生産性の違いも気にする必要はないので、これで思う存分民主主義が進められる、というわけです。今民主主義、と書きましたが直接民主制や地方分権などは地域の「ローカル化」を取り入れなければ為し得ないことです。そりゃそうで、今まで、大きな国、大きな帝国の概念でやっていたことをもっと細かい民意が反映されるようにしよう、という運びで民主主義を取り入れたわけですから、大きなかたまり、概念では到底やりくりに問題が出てやっていけなくなるような問題ばかりなのです。となると、やはりその一区切りの地域が小さい状態、いわゆる「ローカル化」した時代になるわけですから、ローカル化は経済の発展を第一義的に考えた場合に、まぁひとつの通過点になるわけですが一番有効になるのです。道州制なんかもその走りで、細かい地域に区切ることによって生産性を最大効率化しよう、という取り組みなのです。リソースは無限にある、というような書き方をしたかと思いますが、最大効率化すればいくらでもリソースの使いようはあるので、そう書いたわけです。要は、物事効率でなんでも上手くやればいくらでもやりようはある、というわけなのです。グローバル化、ローカル化というのも一種の標榜される事象に過ぎず世界はどうもなることもありませんから、まぁ心配する必要はないのですがそれでも世界は明らかにグローバル化からローカル化の方向に向かっていく、そこでなおかつローカル化が道を切り拓いていくわけですからおもしろいといったらありゃしませんね。それでは、ここらで失礼します。お読みいただきありがとうございました。
posted by skywalker at 17:08| 愛知 ☀| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜ、日本のゲーム会社はこうも失敗作しか作れないのか。

まず、始めに言っておきますがここでは「なぜ日本のゲーム会社はホンモノのゲームを作れないのか」という点に注目して書いていきます。特に、シミュレーションや最近のオンラインゲームのことについてなのですが、とにかく、ちゃんと設定されていないゲームが多い。日本の某オンラインシミュレーションのことについて書くと例えば歴史の交易のシミュレーションなのに金・銀の交換レートがちゃんと設定されていない。また貴金属取引所や証券取引所もありません。悪くすると、物流量からして経済すら再現されていないのですが、少なくとも通貨流通量に対して金・銀の交換レートが、物流量に対して通貨流通量が(あの時代は通貨はすべて金銀銅で出来ています)ちゃんと設定されていないと到底交易は再現できないのです。金銀で通貨ができていて、しかしながらそれに関する取引所もない。ましてや通貨量が金銀の交換レートでちゃんと設定されていないとなると、物流量と金銀の流通量が不足した場合にまったく交易経済は再現できなくなる、のです。もうひとつ痛い点を挙げるならばプレイヤーだけの流通に頼ってコンピューターがシミュレートで自動で流通させる分を計算に入れていない、のです。これは貴金属取引所や証券取引所が設置されていないことからも分かりますが、運営会社は最初から交易経済などみじんも正確に再現する気がなかったのです。まぁ、これはそのつもりがなかったというよりも圧倒的に知識量が不足していたからで、普通の人ならば金・銀の交換レートやと取引所がちゃんと設定されていない時点で正確でないことに気が付きます。作る側に力がなかったというより、元より基本的な知識が備わっていなかったからで、金銀の取引流通量も、物流量に対して通貨流通量がちゃんと設定されていなかったらどうなるか、ということが分からない、というか理解する気がなかったのです。この稿を簡単にまとめるなら、結論としてはちゃんとした元からの知識もなければ、ちゃんとしたものを作る気もない、ノウハウもないのです。もうひとつ、かばうわけではありませんが言っておくと日本人には、「ちゃんとしたゲームを作る権限はない」、のです。詳しいことをいうとややこやしくなってしまうので言いませんが、日本人がもしただオンラインゲームをやっているだけの層が頭が良くなってしまうとどうなるか。世界の権力者は、金融を牛耳れなくなってしまうのです。まぁ、ただのオンラインゲームユーザーにそこまでの力があるかというと当然、「ない」のですがそれでも真実を知ってもらっては困るのです。今、「真実」と書きましたが日本人以外、あるいはヨーロッパ人であれば誰でも知っているような「常識」なのですが金銀あるいは金融のことについて基礎的なことぐらい誰でも知っていて当たり前、です。いや、むしろ今の日本人にはそれが知らされないようにできているからそれが当たり前、なのですがとにかく日本人が作った、日本製のオンラインゲームごときでそれが解明してしまっては困る、そう思ったのでしょう。いや、もっというならばオンラインゲームはおろか普通のゲームは海外製でもバカに作られています。一部のちゃんとこだわって作ったゲームだけが一応正確に再現されていて、あとはポンコツ以下、なのです。ゲームがシミュレーションゲームである以上、ある値が間違っていたらとんでもなく間違ったデータになってしまうのは当たり前で、ましてやそれが人為的に元から組み込まれていない、となるともう目も当てられません。最初からまともなゲームになるはずはない、のです。まぁ、これ以上書くと疲れてくるのであまり書きませんが、ちゃんと作る側に知識がないとゲームはただのポンコツなのです。やるだけ無駄、というものでそれならちゃんとした知識を本なりで探してくるほうが、よっぽどましです。そもそもゲームが知識をもたらすという考え方が根本的に間違いで、そのゲーム自体が間違っていては、正確なはずがないのです。そのゲームはゲームの中のことについてしか教えてくれませんから、ゲームの外、あるいはゲームの設定に入っていないものに関しては到底理解できないのです。作る側にちゃんとしたものを作る気がなければ、そもそもゲームでシミュレーションなど正確に再現できるはずはない、のです。ちゃんとした現実の知識がない、ということは素人裸以下同然で誰がやっても普通のまともな人なら、おかしいとすぐに分かる程度のものができてしまうのです。日本ゲーム会社はそういったものに対していまいち社会的責任を負っていないようにも見受けられますが、とにかく、ゲームは遊びの道具などではなくお金を払って買う以上、ひとつの商品であり創作物、なのです。下手なものを作って平気で売るあたり、商品に対してちゃんと反応も来ていなければフィードバックも来ていないことが丸わかりなのですが、まぁ、これ以上は言いません。どこのゲームともいいません。ちゃんとしたところが作らないゲームには、意味がないのです。しかも、そういうゲームができる下地も、ユーザーも、日本には「ない」のです。ちゃんと作ればそれでよいのですが、そもそもそれが出来ない、あるいはその気にさせない、という理由もちゃんと存在、します。権力の圧力といえばそれで終わりかもしれませんが、とにかく、一人一人の人間がちゃんとした知識を持っていく必要があるのです。それを「やるな」、とはいいません。ただそれをやめずに損をするのは、少なくとも「あなた」なのです。
posted by skywalker at 12:32| 愛知 ☀| Comment(0) | 雑記・雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月18日

ゲームシステムとは何か―ゲームの蓋然性と必然性(ブログ転載)

ゲームシステムとは、ここでは簡単にゲームのシステムのことを指しています。つまり、世の中のほとんどの事象はゲームあるいはゲーム形式と呼ぶことができるのですが、そのシステム的になった部分、ゲームのシステム、つまり世の中すべてのことですね、これをゲームシステムと呼んでいます。ゲームの蓋然贅と必然性とは、蓋然性とはすでにそこにあること、必然性、必要性とはなぜゲームがすでにそこにあるかのように必要なのか、そこにあるのが必然なのか、ということです。分かりやすく簡単に言ってしまうと、世の中の仕組みを解き明かしたくて世の中の仕組みやなぜそこにあるのかを理解しても、結局世の中のこと、世の中そのものであるからなぜあるのか、蓋然性を理解してもしょうがない、つまりすでにそこにあるものごとについてはなぜそこにあるのかを考えてもしょうがない、行き詰ってしまう、ということなのです。分かりやすいのかどうかは分かりませんが、蓋然性は考えてもしょうがないし、必然性、必要性についてもほとんど行き着く先がないのです。というのも、ゲームとは世の中ほぼすべての事象、物事を指しているのに際し、蓋然性はあるものをあるといってもしょうがないし、必然性についてもゲームの系の中からではゲームの意味合いなど証明しようがないのです。ゲーテル、チャイティンが証明した神の系の中における不在そのもので、中からでは中も外も証明しようがない。外に出て、初めて中も外もある程度は証明可能なのだ、ということを自ずから証明してしまうのです。これがゲームの奇怪・摩訶不思議というもので簡単にいうとゲームとは系そのものであるからその系の中だけでは系の中のことも外のことも証明し得ないのです。系の外に出て、系の外から初めて俯瞰し得てこそ、系の説明も証明も為し得るわけて、これがゲームの奇怪です。まあ、答えを言ってしまうとゲームとは系そのものであり問いそのものであり答えそのものでもあるからそれそのものでは意味がない、外に出ないと分からない、というのが答えなのですが要はゲームをやめなければいけないのです。ゲームとはここではゲームや遊びのことだけではなくて世の中の事象や現象のゲームについてもやめなければいけない、ということなのですが、そうすると悟れる、というわけです。加えて言っておくなら、世の中すべての人は生まれながらにして悟ることを欲している、ともいえるわけですが、どうやってそれをやるか、というと単純にゲームをやめてしまえばいい、のです。しかも、注意として言っておくとただ目の前のこと・事象をやめればいいか、というとそうではなく、ゲームそのもの、その事象をやめるかどうか、というゲームすらこの段階ではやめなければいけないのです。つまり、選択の必要性からも自由になる、ということなのですが、なんせ世の中のほとんどの事象はゲームなので、問題を読む時点からゲームは始まっているのです。それをやめなければいけないのですから、ゲームをやめるというのは、すなわち考えるのをやめることでもあり、ゲーム総ひっくるめて系の中から出てしまうことを指しているのです。これがゲームシステムとは何か、ということの本質でありゲームの蓋然性と必然性とは何か、ということについても十分説明できたか、と思います。どう説明できたのか、といいますと蓋然性とはそこにあることで、必然性、必要性とはなぜゲームがそこにあるのか、何のためにあるのか、ということなのです。つまり、系の中のことを系に尋ねてもしょうがない、ということの例えであることで系の中のことも外のこともすべて系の外に出てそこから俯瞰しないと分からない、ということの例えなのです。つまり、系から出ろ、ということなのです。だいぶ、難しい複雑な説明になってしまいましたが、要は系の中のことと外のことを知りたければ系の外に出ろ、ということなのです。つまり、ゲームシステムについて理解しろ、ということはゲーム、系の外に出て調べなければ分からない、ということで最終的な結論としてはゲームがやめられるか、いかにやめていくか、ということになるのです。ここまでいくとよく読んでいる方にはお分かりかと思いますが悟るということは考えることをやめる、ということがよくお分かりいただけると思います。結局、ゲームの系について説明してきましたが悟るということは考えるのをやめること、また系・ゲームの外に出る、ゲームをやめる、ということでもあるのです。だいぶ長くなってしましまたが、今日のことはこんな感じです。お読みいただいた方には感謝したいと思います。また気が向きましたら他の稿もお読みください。

あとがき

今回のはまずコミュニティのほうのブログで書き起こしたことをこちらのブログにコピペしただけなのですが、簡単にいうと系の外のことを知りたければ、系の外に出ろ、ということ、つまりゲームをやめろ、ということなのです。ゲームとは、画面上のゲームだけのことではなくて、世の中のほぼすべての事象のこともゲームなので、それをやめろ、ということを指しているのです。系の外のことを知るには系そのものをやめなければいけない―難しい問いですが、世の中の事象というものは要はそういうことなのです。またこの稿についてご質問・ご返答等あれば大歓迎です。分からないことから聞いてください。分からないことから解明することで、だんだん未知の領域も解明されていくのです。
posted by skywalker at 11:29| 愛知 🌁| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする