2015年07月25日

経済インフレと市場の重要性

市場は、主にmarket ですね、市場は経済的に発展する上でものすごく大事なものなのですが、今日はその市場と経済的なインフレとその拡大・抑制について、まとめていきたいと思います。基本的に経済というものは市場の設置によるインフレ拡大と、その市場そのものによるインフレ抑制効果で成り立っているので、それを中心にまとめていきましょうね。

市場にはインフレ拡大効果と抑制効果があると書きましたが、まずは拡大効果のほうから。市場のインフレ拡大効果とは、基本的には市場がその場所にできそこで取引が起こることで経済的にはインフレを起こしたと同義、というものです。経済的には取引が起こることそのものにインフレ効果がありますから、交易でも市場の取引でも取引が起こるたびにインフレは起こっているわけです。ちなみに、ここでのインフレとは「経済的に利益が発生し、またそれが循環し利益を享受できること」、です。もうひとつの、インフレ抑制効果とは市場の存在そのものでインフレ抑制効果がある、ということです。インフレというものは常に発生と吸収を繰り返して経済が大きくなっていくものなので、必ず通貨なり市場なり発生したインフレを吸収していく必要があるのです。通貨の場合は政府発行によりインフレが吸収されますし、市場の場合は取引や流通そのものでインフレが吸収されていくのです。つまり、市場にはインフレを循環させる効果があることがお分かりいただけたと思います。市場を設置することで、取引や流通で発生するインフレ分とその他方々へ流通していくことによってその発生したインフレが解消されていく効果もあるのです。基本的に、シミュレーションゲームでインフレが解消するといったのは銀行か倉庫である場合が多いですが、市場そのものにも実はインフレ解消効果があるのです。しかも、市場はそれそのものがインフレを起こす効果もありますから、一石二鳥ですね。市場を設置することで、経済は成長するのです。市場がなければ、逆にどんなに生産量があっても輸出量があってもその街は儲かりません。まぁ、そういうシステムもあってか、有史以来人類の文明にはそのような市場を持たない街など存在してこなかったわけですが。とにかく、街にとっては市場というものはとても重要で、経済そのものが市場とその取引、流通によって支えられているのです。というと、こうも言うことができます。経済というものはすべて取引で成り立っているということ。取引や流通をさせなければ、どんなに生産していても経済は発展していかないのです。取引することで、余剰品や必需品を交換できる。そもそも、モノの生産量を上げることができるのも市場の取引で需要が上がるためです。市場なくてもは、経済は成り立たない。逆にいえば、そもそものモノの生産がなくても、市場はおろか経済も成り立ちません。すべてが密接に関係しあっているからこそ、経済というものは成り立つのです。どれかひとつが欠けても、ダメです。まぁそもそもひとつのものをバラバラに解説して説明しようとしているのですから、もとよりひとつだ、というのは当たり前なのですが、それにしても市場とモノの生産、経済というものは密接に関わりあっています。アダム・スミスの「国富論」でもそうですが生産と市場と経済というものは、常に一体なのです。
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2015年07月15日

戦いのセオリー-戦いで勝つためには

はい、戦いで勝つためにはどうしたらいいか、ということですがその前にまずこちらを確認しておかなければなりません。そうです、戦いはすべてゲームなのです。ゲームとは数学の複雑系の一分野のゲーム理論でいうゲーム性を持った形式のひとつで、世の中のものはほとんどすべてがゲームなのです。ゲーム性というものはゲームにそれぞれ自然発生的に発生するもので、ゲームが駆け引きや取引で成り立っていることの所以です。まぁ、簡単にいうと「ゲームっぽい」ということなのですが、ゲーム理論の本を2,3読んでいけば分かることでしょう。なのでここでは詳しい説明は省きます。

さて、ゲームについてはざっと説明してきましたが、戦いで勝つためにはどうしたらいいか、ということですがこれは単純にいうと、「相対的有利に立てばよい」ということなのです。ゲームとは、ゲーム形式ですから必ずといっていいほど両者がやりあって最終的にはどちらも疲労困憊するまでいきます。となると、最初の一手が肝心で最初の一手、二手さえ誤らなければゲームでは大抵勝てるものなのです。ちなみに、ゲームでは最初の一手、二手、三手ぐらいで相手の方向性を決め自らでゲームを引っ張って主導権を握るため、あらゆるゲーム的手段を取ります。これがゲームは駆け引きや取引だという所以で、ゲームでは基本的に最初の一手、二手、三手でゲームの方向性を決めるためにありとあらゆるゲーム的行動を取るわけです。といっても、基本的にゲームではそのゲームで取るべき行動はある程度は決まっていますから、まずゲームに入る前にそれがどんなゲームなのか、何をしたらいいのかをまず確認してからゲームに挑むことになります。ちなみに、この最初のアセスメントが重要でこれをやっておけばどんなゲームかも分かるしどんな方針で行けばいいかも分かるのでゲームで相対的有利に立てる、というわけです。ちなみに、最初の二、三手でゲーム的行動を取る、と書きましたがゲーム的行動というのはそもそもゲームで相手に自分の行動を見せることによって相手のその後の行動を誘導するためのもので、その後の展開を有利にするためのもの、なのです。先にも書いたようにゲームで取るべき行動はある程度は決まっており、ゲーム的行動で相手の方向性を決めることができれば当然ゲームでは主導権を握ることができますから、ゲームとは最初の一手、二手、三手でゲーム的行動を取ってそれによって相手のゲーム性や行動を誘導しゲームを有利に導くもの、と覚えておけばよいでしょう。特に、有利にゲームを導くというのはこの稿の最初に書いた通りゲームにおいてはすごく重要なことですから、よく覚えておくとよいでしょう。ゲームで主導権を握るにはゲームを有利に導けばいいですからそのためにはまずゲーム的行動を取ってゲームにおいて優位に立つわけです。ちなみに、この理由は前にも書いた通りゲームではお互いやりあうとどちらも消耗しきってしまうことは分かっていますから、全体を万全に運ぶためにもゲームではどちらも最初の二、三手で勝負をつけようとするのです。ゲームに熟達したものであれば熟達したものであるほど、ゲームというものは最初の一手か二手でもう勝負が決まってしまうものですから、最初にどんな方向性でいくか、どんな方針でいくのかをまずゲームに入る前に確認しておいて、それから万全の状態でゲームに入る必要があるのです。ちなみに、歴史の戦いにおいてよく奇襲などで敵軍勢に大打撃を与えてそれで大差をひっくり返す、といったような局面をよく見かけますが、あれは奇襲そのものがそのまま成功した、というよりももともとゲーム的には奇襲を仕掛ける側が圧倒的に有利に立っていて、相手がそのことに気付かなかったために起こる、成功するものなのです。なので最初から大差が明らかな敵相手に奇襲をしてもしょうがありませんし、逆に実は有利ではなく不利に立っていることに気付かないからこそ赤壁の戦いや桶狭間の戦いみたいなことになってしまうのです。戦いにおいては、まず自分がどんな立場に立っているのかをよく確認しておくことが重要で、その事前の確認こそが戦いの成否を分けてしまう、のです。実際、戦いにおいては命がけですから、まずその味方の将兵の命を守る観点からも、事前に十分確認した上で万全に物事を運ぶ姿勢が重要になってきます。戦いにおいて命がけなのはもう古いのかもしれませんが、ゲームでは基本的に負けたら終わり、なのでやはり命がけとほぼ同等であることにはなんら変わりありません。いや、むしろゲームでそうやって命がけになることをシミュレートできる時代になったのですから、やはりゲームは真剣に取り組むべきもの、と言わざるを得ません。それと、これは忘れてはいけないことですが、ゲームではあまり本気になりすぎず、たまには落ち着いて全体を見渡すことも重要です。ゲームというものは、大抵は自分の見ていないところで動くものですから、冷静に全体を見渡す癖がついていないとゲームの重要な転機大局の変化を見逃す、ということになってしまいます。ゲームで重要なのはまず全体を見渡すことで、その冷静さが味方の運命を決めるのです。よく戦いで勢いだけで行ってしまう人を見かけますがゲーム性を無視して勢いだけでいっても犬死することは見えていますから、戦いというのはまず全体を見渡すこと、それから全体の運用性が重要になってくるのです。装備や兵器においても攻撃力や防御力といった見かけだけの性能よりも、全体での使いやすさ、運用性の値が一番重要になってくるのです。言い換えるならば、ユーティリティといったところでしょうか。全体での運用性こそが、戦いというか大局のさなかで味方の優勢、不利を決めるのです。使いにくい装備や兵器は最初から使いにくいですし、使いやすい兵器・装備なら逆に全体の中で相対的優位に立つことも可能になるのです。使いにくい味方についても同様で、ゲームの中においてはまず全員がある程度の同じ一定の方向を向いている必要があります。ゲームとはそういうものでゲームがゲーム形式という一定の形式である所以なのです。まぁこれの説明についてはこれくらいにしておきますがゲームとはほんの小さな動きからほんの一将兵の動きまでとても小さなことで大局がひっくり返ってしまうものなのです。ゲームにおいてはまずメンタリティが重要になる。このことを覚えておけば、百戦危うからず、でしょうね。
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2015年07月12日

資産を循環させる方法-basic financial instruments

はい、というわけで今回は、有価証券という副題がついていますが資産を社会全体、世界全体で循環させる方法です。といっても、ほんのさわり的なというか大まかな概論ですので軽く読み流していただく程度でいいと思います。そんなに長くないので最後までお付き合いいただけるとありがたいです。

有価証券などの信用取引は社会のいわゆる金融の基本的なシステムを支える上でもっとも重要なのですが、基本的なその仕組みとは単にお金の循環にあると思います。なのでお金の循環という視点から資産を循環させる方法について見ていきましょう。
社会で資産というかお金やモノなどを循環させる方法には大きく分けて二つあります。ひとつは、証券取引所など資産(特に金融)をやりとりする場所、交換の中心地を造って取引や交換を活発にする方法です。これは近世のヨーロッパでも、というか中世のヴェネツィアやフィレンツェなどではすでにあったでしょうがいたって基本的な方法です。まぁタイトルのbasic financial instruments というのもまさにそれに当たりますし、とりあえずは金融取引の中心地で証券や債券などをやりとりするのは至って単純な方法なのです。して、もうひとつの方法とは、社会全体の一人一人にファンディング(funding)、全体の一人一人がある程度資産を持っている状態でそれらから少しずつ利子という形でお金を吸い上げる、といってはちょっと汚い言い方かもしれませんがそういう方法です。まぁ、現代の有価証券や株の取引きなどがそれにあたる方法ですが、とにかく皆が資産を持っている状況で少しずつお金を集める、してそれらを集積して循環させる方法なのです。細かい利息払いや利回りなどは金融商品などを使えばできますし、基本的には公にお金を集めたり政府に寄付を募る方法となんら変わりがありません。とにかく、お金を集めてそれらを循環させる、つまり何かに投資するなどすれば、社会全体で資産が循環することになるのです。この方法のミソは個人や限られた会社などの資産を循環させる方法ではなく、社会全体で利息払いなどを利用して少しずつ資産を循環させる方法である、ということです。まぁ細かい説明はこのくらいですが金融取引の中心地を使って社会全体の資産を循環させる方法と、個人から少しずつお金を募ってそれらを何かに投資して循環させる方法を紹介しました。結構大げさなタイトルがついていますが中身はこれくらいです。まぁ歴史的な例というか事象についてもそこまで言及していませんので今回のは、こういう概論だということで。細かいことは、お金すら全体で循環しているので何にも問題ないのです。社会で循環していないものはありません。その精神論こそ、社会システムを明らかにする上で重要不可欠なことなのです。
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2015年07月11日

仮想空間は写像世界

仮想空間は、写像世界です。なぜなら、それは今起こったことを脳の空間に映し出した、脳が創った写像世界だから。仮想のものなどなく、あるのは今目の前にある現実だけ、なのです。ただ、現実というものもないのかもしれない。なぜなら、それも脳が創った写像世界だから。最後にこの曲を紹介しておきます。YouTubeなどで「Utopiosphere/mili」と検索してみてください。この曲でまとめておきます。では、お疲れ様。また、また。
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オンラインゲームには意味がない。

はい、オンラインゲームには意味がありません。具体的に、何が意味ないのかといえば、オンラインで多人数でやるというところに意味がないのです。オンラインゲームを含め、ゲームに意味があるというのはあくまでそのゲームシステム、ゲームの構造論に意味があるのです。例えば、ある設定のゲームを最後までクリアすることによりその構造、システムが見えるつまりゲーム構造を上から俯瞰することによって、そのゲーム構造の突破の仕方あるいはそれを応用して他のゲーム構造の突破の仕方も分かってしまうからこそ、ゲーム構造の理解やゲームのクリアには、意味があるのです。従って、オンラインゲームの類で意味があるとすれば、そのゲーム構造(コンシューマーゲームでも一緒ですが)には意味があるのであってオンラインで多人数でやっているというのには、全く意味がありません。ネット上でオンラインで、多人数でやればやるほど増えていくのは「カオス」だけです。元々、オンラインゲームにしろ何にしろ、ゲームというものには構造論がありますから、その構造とそのクリア、突破がゲームの理論の系としては重要なのです。なのでゲームに関わらない部分のオンラインや多人数といった部分には何の意味もありません。オンラインゲームの実体には、ゲームの構造というシステムの部分がまず最初にあって、そこにデータや要素(要はカオス)をつぎ足していく過程には何の意味もないのです。重要なのはゲーム構造で、基本的にはゲームにはその後のデータ、つまり要素の部分にはほとんど意味がありません。ゲームの理論系としてはゲームの構造とさらに上の構造のみ重要なのであって、オンラインや多人数の部分には全く意味がないのです。なぜかというと、最初申したようにゲームの構造にこそゲームの意味があるからであり、そもそも電子的なゲームの存在意義(スポーツなどの有態ゲームも含む)はその(それを含め社会システムなどの)ゲーム構造を明らかにすることであり、そのために有態・無体、電子的なものも含めゲームに意味がある、と言うことができるのです。つまりゲームシステムやゲームの構造を明らかにすることに意味があるのであり、その他大勢の細かいデータや要素を再現するために要素を抽出するのにはまったく意味がない。つまりオンラインゲーム含めゲームというものは全くの中空で、構造というか骨組みだけあってまったく中身のないものなのです。なぜそうなのか、といえばゲーム自体もともとゲームの構造を明らかにするためのものだったのであり、オンライン含めそういうのは構造だけ明らかにできればよいのでそもそも中身のないものなのです。ゲーム構造とは社会システム含め大小のゲーム構造のことで、それを明らかにするために有態・無体のゲームはあるのです。なのでそのゲーム構造自体はまったくの中空だといわざるを得ない。元はといえば、ゲーム構造自体を明らかにするためのものだったのですから、ゲームの要素やデータの中身そのものには全く意味がないのです。まとめると、現実のゲームをクリア、解決するためにゲームは意味があるのです。しかも、それは主に意味があるのはゲームの構造・骨組みの部分にだけ、です。よく廃人という表現をしますが、あれは中身のない酒を飲んで酔っ払っているのと一緒で、まったく意味がないものをひたすらやり続けてしまうからこそ、そうなってしまう現象でもあるし要は無意味なものをやり続けている、つまり現実も知らないし現実を見ようともしていないのです。これほど批判しましたがゲームの意味があるのはそのゲームの構造・骨組みの部分のみ、です。オンライン、然りです。なおゲームの中身には意味がないというような書き方をしましたが、正確にはリアルのゲームの中身には多少の意味があるかもしれません。ただ、リアルにしろ仮想にしろ結局意味があるのはゲームの構造の部分のみで、実はゲームは中身をやり続けてしまうと一生そのシステムの奴隷になってしまう仕組みになっているのです。なのでゲームというものの構造というかそもそものそれ自体の目的というものは、「ゲームをクリアしてさらにその上のゲーム、構造を明らかにする、それを繰り返すことでやがて究極の部分のゲームから目が醒める」こういうことで、そこに意味があるのではないか、と思っています。だからこそ、ゲームの中身には意味がないというし骨組み、構造を見なければ意味がないともいいます。少なくとも、ゲームの構造という視点で見るならば、ゲームの構造の部分にのみ意味があるのです。従ってゲームの構造以外の部分には意味がありません。しかも、そもそも意味というのは自分で見出すものであって、他人に与えられた「意味」をそのまま鵜呑みにするわけにはいきません。構造の意味を鵜呑みにしてしまってはいけませんし、構造そのものも鵜呑みにしてはいけません。ここでいう究極とは、そのゲームの構造自体そのものを自分で造ってしまうことであり、自分がそのゲームの住人となるのです。そのためには構造を知らないといけませんし、そもそもその究極を達成した時点で、人としてやるべきことはある程度は達成されている、ともいえます。(あくまで、「ある程度」です)構造をクリアするためには構造そのものの構造をそもそも知っておく必要があるのですが、それ以上に構造を超えることが重要です。少なくとも、構造そのものにも意味がありません。あるのは、その構造を知ってその構造を超えることです。システム論、構造論が古くなってから大分経つと思いますが、それでもシステムを超えるためには未だに構造どうのこうのについて言わなくてはならない。構造どうのこうのも、そもそも構造を解決するためのものですが、いずれはその構造も解決して捨て去っていかなければならない。もう、人類が固定のものにこだわってそれを守り続ける時代は、とうの昔に終わったのです。これからは新しい時代です。そのためにも、今一度構造を超えてそれを捨て去る作業をしなければならない。そのためにも構造を知って説明しておく必要があるのです。構造は、過去のものです。しかしながら、それを説明するには構造を知ってそれを解決しなければならない。ゲームには意味がないですが、その構造を知るのには意味がある。いや、むしろ意味があるのはリアルのゲームのほうであって、その解決には意味があるのかもしれない。構造そのものには意味がなくても、その構造を超えることには意味があるかもしれないのです。他人によって作られた意味ではなく、自分で造った意味に生きるようになりましょう。そしたら、ちょっとは可能性が開けてるかもしれないのです。これは人類全体にも言えることですが、一人一人が新しい世界を切り拓いていかなければならないのです。そのためにも、古い構造の仕組みを知っておく必要がある。大切なのは、リアルであってパラレルワールドではない、のです。
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posted by skywalker at 14:18| 愛知 ☁| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月09日

勝利の倫理と撤退のセオリー

勝利の倫理と書きましたが今回は戦術的セオリー、特に戦いにおける撤退のセオリーについて書きます。といってもどちらかというと撤退の方法論に関するセオリーというよりは撤退することそのものに関するどちらかというと精神論や撤退そのものの方法論について、ですのでゲームやその戦いに興味のある人は是非読んでおいてください。スポーツ、ゲームに関わらずすべてのゲームに関わる人に役立つ内容となっております。なお結論としてはもう最初の数行で出ていますのであとは書きたいことを書くことにします(笑)。結論を軽くまとめておくと、ゲームというか戦いは陸でも海でもそうですがとにかく引き際、撤退が重要だ、ということです。スポーツや現代のゲームではよく分かることですが、ゲームというのはほとんどすべてが一区切り(というか、一区切りのあるものをゲームと呼んでいます)があるのです。ゲームの括りというか範囲のないものはゲームとは呼べませんから、あくまでゲームの一区切りのあるものをゲームと一般的には呼んでいる、のです。人生でもなんでもそうですが、ゲームというものはいつか終わるもの。人生の場合はそれが何度も繰り返されますが(言っておきますがこれは輪廻転生のことではありません。ひとつの人生で何回も同じゲームを繰り返すのです)基本的には、それぞれに一区切りがあってその都度終わるからこそ、由々しくもあるし美しくもある、のです。そのゲームの終わりを繰り返すのが人生でもあるのですが、空(くう)の論理ではありませんがゲームというものは終わるからこそ意味があるのです。終わり、というか区切りのないゲームは最初から意味がありません。あくまで、終わりを設定してその都度ゲームを入れ替え直すからこそゲームには意味が出てくる、のです。その際、重要になる概念が引き際、撤退の技術になります。

長い間ゲームをやっていると分かることですが、(普通のゲームに関わらず、どんな人でもゲームはやっていますよ。社会のシステムなんかもゲームです)ゲームにおける勝利の倫理とは、撤退、引き際の技術のことです。勝利の倫理と書くとちょっとややこやしいかもしれませんが、要は勝つ方法でもあり戦いにおける倫理のようなものです。つまり、ゲームが終わったら、撤退する。勝っても負けても、兵を引くのが戦いの定め、というわけなのです。古来、戦いにおいて適宜なタイミングで兵を引かないことほど、大局を損じる方法はありません。兵は引き際、撤退のタイミングがすべて。そのタイミング如何で、大局すらすべてが決まってしまうのです。よくゲーム初心者ほど、勝とうとするというか勝つことにこだわりがちですが、ゲームで重要なのは勝つことではありません。すべては兵というかゲームの引き際、撤退することに意味があるのです。勝っても負けても、ゲームというものは必ずいつか撤退、引かなければなりません。ゲームはどんな場合であれいずれは終わるものなので、その引き際が肝心、というわけなのです。ちなみに、戦いの場合は特にそうですが、撤退のタイミングを見損なうとすべてが台無し、大局を失ってしまいます。もともと戦いに投じられる人的資源には限りがあるので、戦いにおいてはその損耗を最小限に食い止めるのがセオリーになるのです。戦いにおいて重要なことは、勝つことではなく最終的に消耗を最小限にして戦いを終える、ことにあるのです。物事なんでも引き際が肝心、とはよくいいますが、まさしくゲームというかゲーム理論においては、そのセオリーがぴったり当てはまる、のです。物事の引き際、撤退のタイミング、これほど重要なことはありません。古来からいう、兵法における要というのはすべて引き際、撤退のタイミングにあったのです。

初心者は勝つことにこだわりがちだ、ということを書きましたが勝ちたがるのは、ものすごく平坦な言い方をしてしまうと弱いから、です。弱いものほど、目の前の戦いに勝ちたがります。確かに、ゲームをうまくこなすことは重要なのですが、それ以上にもっと重要なことは常に他のことにあります。なので、ゲームのセオリーとしては目の前のこと以上に常にゲームの外側に目を向けることが重要なのですが、弱いものほどそれがよく見えない。弱きものほど目先のことにこだわってしまうので、チャンスも逃すし大局も失う、のです。ちなみによく物事を入れ替えて現状の打開を図る人がいますが、あれは全く逆でむしろゲームを入れ替えることで現状を変えようとしているのです。弱きものは目の前のゲーム(というよりはむしろその見方よりもゲームとして認識していないことが多い)にこだわるので先が見渡せません。一方、ゲームを入れ替えて展開を図ったり先のことを見渡そうとする人には道が開けています。とにかく、高い視点で物事を広く見渡すことが重要、ということになるのですが、ゲームひとつにこだわっていてはいけません。確かに、ひとつのゲームをうまくこなすことは重要なのですが、それ以上に広い視野を見渡すことが、人間にとっては重要になってくる、のです。物事はなんでも視野の広さ。ゲームにおいてはなおさらそうですが、細かいことにこだわっていてはいけない、のです。その意味でも、引き際、撤退のタイミングが重要になってきます。ゲーム的にもそうですが、撤退のタイミングを見誤ると大局を失ってしまいます。物事はなんでも引き際が肝心。そのことを肝に銘じておけば、戦いにおいて大局を見失うことはないでしょう。撤退こそ、戦術・戦略のすべて。そのことを忘れなければ、いろんな意味で、あらゆる意味でもう思いっきり負けることはないでしょう。戦いにおいて、大きく損じること。このこと以上に、大きな損害はありません。とにかく、負けない。そのためには、引き際、撤退のタイミングを見極める。これが重要になってきます。
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2015年07月03日

交易の諸原理

交易の諸原理、ということですがこちらは簡単な原理、になります。まず、前稿の追記で交易で儲かるとしたら相場の差だ、ということを書きましたが、もう少しそれを正確に表現するのなら、そもそも街により交易品の価値に差があるので、その街の間の差を利用して、というところが一応の交易の原理になると思います。例えば魚肉や木材を売っている街では、同じものは買い叩かれてしまいますね。木材に限って言うと、魚肉を作るのにも生活するのにも、商品製造の燃料にも船を作るのにも役立ちますから、必ずしもすべてがそうだとは言い切れませんが、基本的に魚肉や肉などの製品は売っている街だと当然余ってしまうので買い叩かれてしまいます。まぁそんな街にそもそもそういうものを運び込む道理もないのですが、それそのものを生産している街ではそもそも同じ交易品は売れません。売っても利益がほとんどの場合出ないですからね。これも一種の市場原理のようなものでしょう。対して、魚肉を作っている街Aとはちょっと離れたところに街Bがあるとします。そこでは魚肉の製造はしていません。となると、簡単なこどもだましのようですがAで買った魚肉をBに運ぶと儲かるわけです。またAにもし木材が売っていてBにはなくて需要があれば当然Bでは木材は高く売れます。このように街の間を船などでモノを運んで結ぶのが交易で、離れたところにモノを持って行ってその価値の差額で儲かる、というのが交易の一応の原理、ということになります。ここでいう交易の諸原理とは街ごとにそれぞれのモノの価値は違うので、その差額を利用すれば儲かる、ということについてです。最初の相場の差を利用して、というのがありましたが、相場というものは常に変動しているので必ずしもそれで儲かるとはいえません。ただ、反対に街ごとの交易品の価値の差を利用して、というのは一見相場の差を利用して、とも読めますが実はここでいいたいのは街ごとに交易品の価値にそれぞれ差がある状態では、街の間を結ぶだけでそれだけで儲かる、ということなのです。確かに経済のグローバル化が進んで市場が世界規模で統合されればそれぞれの地域での有意な交易品の価値の差はだんだんとなくなっていきますが、それでも街AとBの単純モデルで考えた場合は街それぞれにそもそも交易品の価値の差があれば、その街の間を船で結んでモノを運ぶだけで儲かる、というわけなのです。ここでいいたい交易の諸原理というものはむしろそういうもので、交易で儲かる、というのはそもそもそれぞれの街同士に交易品の価値の有意な差がある、ためなのです。
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産業は製造業がすべて。

産業は製造業がすべて、です。交易などでモノを動かしても基本的には物理空間を移動させただけで、むしろ製造業とは分けて考えるべき、です。それでも、交易・投資などは結局は前者は物理空間でモノを動かしているだけですし、後者は金だけ出してリベートを得ようとするこずるいやり方、です。それでも投資業は儲かる側面がありますが、それはそもそもそれをやっていいのはその製造業の創業者や株主だけです。自分の持っている製造業で利ざやを得るならまだいいですが、他人のそれに乗っかって利益を吸い上げようとするのは外道もいいところです。従って、投資業は自分の製造業あるいは、自分の職業と関係のある産業でやるべき、です。でないとリスクヘッジも連動しないので、総じてでは利益がでません。話を製造業に戻しますが、そもそも製造業というのはモノを造りそれに付加価値として乗っけて売りに出す産業です。モノを造るのもそうですし本やメディアなどの情報空間の価値を売りに出すのも製造業の一部というかひとつですが、そもそもモノを造って付加価値を乗せて売ること、です。付加価値とは新たに生み出された価値、ということで、経済というのは新たに生み出された価値に対して貨幣が供給されることで好循環となります。(詳しくは「アベノミクスを超えて」/苫米地英人著より)従って、産業としてはモノを造って新たな価値を生み出す製造業にしか意味はないのですが、本やメディアなどの情報を生み出す産業も製造業に入ります。つまり、何かを造れば製造業になるのですが、その産業の必然性として当然新しい価値を付加する、乗っける必要があるのです。しかも、それが市場に受け入れられる必要があります。そうすることで、市場に新たに付加価値が生まれたことになります。基本的に、産業の利益というものは新たに価値を生み出した場合にしか発生しません。会計のそれとは、特に1次生産業の場合は土地代や運営費がそのまま出力されたに過ぎません。ちなみに農家や漁業者が潰れないのは生活の一部つまり食料を自分の生産分で賄えるから、です。生活に必要なものさえ尽きなければ、生活を続けることができます、よね?生み出された農産物などに付加価値が付けばいいですが、そうでない場合は市場の供給量に対して、不足分を補った分差益が生まれるだけです。本来の意味で、儲かっているとはいえません。ではどうしたらいいか?1次生産業の場合は、2次加工をして(つまり、農産物の乾燥や塩蔵加工など)加熱などの調理を経ない方法で、中間財、つまり半製品化すればよい、のです。3次加工までしてしまうと、生産にコストがかかりすぎる上に中間業者の儲けが出なくなってしまいますから、生産的にも産業的にもおいしくありません。そもそも農家や漁業者など1次生産者にそこまで無理を強いるのが無理というもので、1次生産者はできる範囲の2次加工をしていればいいことになります。ちなみに、経済インフレ単位では市場に出回る物資が増えたことになりますが、事業者個人の利益としては、1次生産品の2次加工をした段階でその分のコストを引いた差益が利益になることになります。加工した分だけ、それは付加価値を生み出したことになるのです。ちなみに、生産業以外でこれをやっても、ほんのわずかの中間費用が儲かるだけですから、そもそも産業としては成り立ちません。お家の生産業を手伝うのならまだしも、産業としては儲けが出ない、わけです。もし1次2次生産品を売って儲けたいのであれば、そもそもその生産業と自分がつながっている必要があります。出回っている1次2次生産品を売っても、儲かりません。そもそも二次産業品とは違って生産施設を使った大きな付加価値は生み出していませんから、儲けといってもせいぜい市場の不足分を補った差益がでる、だけです。1次2次生産品(一次産業品)で儲かるのは、そもそもそれの原材料から生み出して最低限の加工をした場合のみ、です。あまり加工しすぎない、のがコツになります。ちなみに、6次産業なんて言葉がありますが、確かにあれは過疎地などの田舎では生産から供給まで一括でやってくれるので、安定供給にはつながりますが、都市部と結びついた産業としては役に立ちません。なぜなら、生産者側にはコストのかかりすぎること、ですし流通・供給業者・3次加工業者側としても儲かりません。もし、田舎にそのような儲けのハブを造りたいのであれば、流通拠点を造ってそこを流れるモノから利益を吸い上げるべきで、生産から最終商品まで一括で造ってしまう産業は必ずしもおいしいとはいえません。何よりコストがかかってしまいますし、中間業者の儲けもないので最終的に利益が出るかも疑問ですし、その産業が育つかどうかも分かりません。基本的に、産業では共生・寄生という考え方が重要になってきます。無駄に競争してもお互いの利益を減らしてしまうだけですから、限られた場所なら尚更、産業・生産者の住み分けというものが重要になってくる、というわけです。書き加えておきますが、6次産業というのは限られたごく狭い場所に安定供給するのなら、十分安定産業だと思います。ただ、その場合でも売れなくなってしまったら、利益は出ないどころか運営費用もできませんから、中間業者を上手く使うのも、大切だというわけです。流通・3次加工をする業者のために、うまみは残しておくべき、というわけです。話が6次産業のほうに行ってしまいましたが、話を戻すとそもそも付加価値というのは物理空間の生産で生まれるもの、また製造業だけが、本来の意味での利益を生み出せる、ということです。ちなみに、本やメディアなど情報空間の製造業でも利益というか付加価値を出すことはできますが、仕組み的には物理空間のそれをよりうまく回すために産業はあるようなもの、なのです。従ってというか、モノの軽さから言ったら情報的なものを売り買いするのが一番利益が出やすいのですが、それを含めて情報的生産業というのはあくまで物理空間の産業や付加価値を回すためのもの、なのです。基本的には、物理空間での製造業、つまりモノが基本的な人類の価値として共有されていくことになるのでしょう。あくまで、人類にとって重要なのは、物理空間というか物理的なモノ、なのです。そもそも、物理空間には情報空間と違って大きな制約があります、からね。限られた共有物を、いかに上手く使っていくか、が大事なのです。
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posted by skywalker at 12:40| 愛知 ☔| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする