2015年06月28日

ファンタジーは物理ルールありき

はい、まずどういうことか、というとファンタジーは物理ルールありき、ということです。よくファンタジーやオンラインゲームなどで物理法則を守ってないものがありますが、あれは仮想空間として存在すると、完全NGです。完全に物理ルールを無視しているものは恐らく少ないのですが、それでも物理ルールというものはちょっとでも欠けると法則性を為し得ないのでやはり少しでも物理ルールを破ってしまうのはNGなわけです。特に、17,18世紀のゲームなのにモノが一瞬で届いたり世界の反対側を瞬時にやりとりできたり逆風なのに帆船が進んだり瞬時に修理できたり瞬時に怪我が回復して船員がすぐ戦えたりワープできたり運河が使えたり、といった普通に考えればあり得ない設定も平気で通してしまうのが、特に日本のゲーム会社の詭弁なわけですが、それでも、できるだけそういうのはやってはいけません。なぜなら、物理ルールのないところにはカオスな考えが蔓延るからです。ファンタジーであれ、物理ルールのないものは造ってはいけない、というのが本稿の主張なわけですが、よく考えれば当たり前、ですよね?ゲーム含めファンタジーというのはそもそも現実空間の中の仮想空間なわけです。物理・情報空間含め現実空間なのですから、やはり物理法則を破るゲームは造ってはいけません。ちょっとでも破ろうものなら、カオスな考え、人間が蔓延る。ここは現実空間と同じなのですから、ちょっと皮肉ですね。ゲーム会社には是非とも、物理法則・ルールに忠実な、リアルないいゲームを造ってもらいたいものですね。ゲームといえど、社会的責任があります。物理空間に仮想空間を作っているという責任があるので、当然物理法則は守らなければいけません。例えばの話ですが、マトリックスのオンラインゲームなどは、絶対できないでしょう。なぜなら、あれほどの物理法則を無視できるゲームが大人数で出来てしまったら、それこそカオスになるから、です。ゲームでもなんでもそうですが、仮想空間のものも物理法則・ルールを守る。これが、現実空間の掟であり、暗黙のルールなのです。
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2015年06月27日

貴金属と市場拡大

えーっと、今回の要旨は……そうそう、貴金属と市場拡大、でした。えと、要旨としますと、どうやったら市場が成長して安定推移するか、ということです。市場原理でいうそれとはちと違うかもしれませんが、貴金属と市場の拡大の原理のようなものについて、ちょっと見ていきましょうね。

簡単にいうと、市場の基本的な成長(特に金本位制の近世貿易などの場合で)には大まかにいって3つのプロセスがあります。まず、第一としては市場に貴金属が投下されること。これはその都市に十分な量の貴金属のストックが供給されることを意味していますが、特に第一義的な貿易で利益を出した場合に、というか交易の中心地になることで周辺から貴金属が集まってくる、ということです。おおまかですが、市場に貴金属が集まってきて投下されること、これが第一義的なものです。ついで、第二段階としては貴金属の投下によって購買力が増しますので、奢侈品や輸入品の相場が上がります。市場に十分な量の貨幣が供給されるから、ですね。貴金属の投下によって市場の購買力が増す、これが第二義的なものです。そいで、第三段階ですが、市場の購買力が増した段階でモノを買って売る、または売って買うプロセスにおいてどんどんモノが売れてまたその利益でモノを買う現象が起こるので、市場の好循環になります。これが第三義的なもので貴金属の投下によって購買力が増した段階で市場に売買の好循環が生まれる、好循環が生まれると市場のモノの回転が速くなりますので、当然市場は拡大……というわけです。
市場が成長するプロセスにはいくつかありますが、これは特に貴金属を投下した場合のもの、ですね。ことわっておきますが基本的に貴金属の投下が市場の成長を助ける、というよりも、市場の好循環を引き起こす、といったほうが分かりやすい、でしょうか。単純な貴金属の投下(いわゆる暴落)は市場のトリガーにはなりますがすべてがすべて相場がよくなる、とは限りません。例えば不景気の時に投下したから、といってすぐに購買力が回復するわけではありませんし、相場の改善→購買力の循環といったプロセスを踏まなければならないので必ずしも貴金属の投下がいい効果ばかりとは限らない、というわけです。しかしながら、市場に対していいトリガーになるのは必須で、相場の改善を招くには、有効な手段のひとつであることには変わりません。相場の上昇してから市場に好循環が生まれる、これが第三義的なものです。繰り返しますが貴金属の投下そのものが市場を成長させるのではありません。あくまで、成長の引き金となって助けるだけ、です。貴金属の投下はあくまで手段なので、(市場に貴金属を十分に供給すること、または銀行・都市側がある程度の貴金属のストックを持っていることが成長につながるのですがね)貴金属を持っていること自体が必ずしも好景気、というわけではありません。まぁ、お金持ちには変わりありませんがね。とにかく、重要なのはモノの循環を起こすことで、そのためには貴金属の市場への投下が引き金になり得る、というわけなのです。また、余談ですが貿易と貴金属の売買を両方やっていると、かなり儲かります。システム的な、というか仕組み的なものはいたって簡単で、貿易で儲からない時は貴金属で、貴金属で儲からない時は貿易で儲かるように、できているのです。まぁ、貴金属の相場が貿易の流れとは正反対に動くのがそもそもの原理なのですが、貿易と貴金属の売買両方をやっていれば儲かる、のは間違いありません。ちなみに、商人が貴金属のストックを持つのはやはり本拠地というか交易中心地が好ましい、でしょうね。貿易でモノを運び込むし、貴金属の投下も起こすので両方でも儲かるわけです。また両方で好循環が起こるので、ある意味錬金術ですね。まぁ貿易をする必要があるのですが別にオーナーでもいいわけです。貿易もやって貴金属の売買もしているとなるとアムステルダムのユダヤ人商人か東インド会社の人間を連想してしまいますが、まぁそれはそれで影響力のある人たち、だったんでしょうね。このように、モノのシステムには裏というものがあって、ちゃんとしたモノの仕組みを知れば、何にも難しくない、わけです。システムを知るのはただ事ではいきませんが、ちゃんとリサーチを欠かさなければいずれは仕組みを知ることができるのです。仕組みの解明は私たちの生活に新たな水準をもたらします。すべてのモノが好循環する世界……こういうのを、目指していきたいですね。さて、今日はここで終わります。お読みいただきありがとうございました。また感想・ご質問等ある場合はお気軽にお寄せください。それでは、また。
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2015年06月26日

交易と後背地の生産品

はい、今回は簡単にまとめます。交易と、後背地の生産品、です。というのも交易やその類でのゲームでは交易港、つまり港で売り作られているものに目が行きがちです。しかし、例えばアムステルダムの鉄材など、後背地に生産品の産業がある場合は、なかなか普段のゲームでは目につきません。大航海時代の場合だと、よく鉄材は上がっているのに鉄鉱石は低い、なんてこともありますから、その場合は港の後背地に鉄鉱石の供給元あるいは鉄材の生産拠点があって、例えばハンブルクなどから入ってくる鉄鉱石の相場とは釣り合わない場合も多いのです。アムステルダムでは、鉄鉱石よりも銅鉱石の相場が良いことが多いですが、それは銅鉱石の供給元が近くにないからで、鉄材があったとしても原料の供給元はリンブルグやリエージュなど内陸にあったりしますから、結局は外から入ってくる鉄鉱石とは何の因果関係もない、のです。対して、銅鉱石は近くにメインの供給元がありませんから、平均の相場は高くなりやすい、のです。例え、港で銅加工品が売られていなかったとしても、それはメインの原料供給地が近くにないからで、その場合でも銅鉱石の相場は高くなりやすい傾向にあるといえます。鉄鉱石と銅鉱石に関しては以上ですが、もう少し実例を足すならロンドンなど後背地に銅鉱石も鉄鉱石も供給元がある場合、です。この場合は平均の買い取り価格も高くなりやすいですが(加工品が売られているため)奢侈品のだぶつき具合によっては相場が一律で下がります。奢侈品にお金が流れて、金属加工品は生産が伸びない、からですね。対して、貧困時やインフレーション時など生産需要そのものが上がっている場合は、原料の鉱石は軒並み高くなって、逆に普段入ってこない奢侈品の相場は下がります。よく大航海時代(ゲーム)のロンドンで工芸品など奢侈品の相場が落ちていることが多いですが、あれは海外高級品の出入りで過度なインフレーションを繰り返しているためで、貴金属の暴落が起こったセビリアの例とは違って貴金属が十分に供給されないため(入ってくる海外奢侈品に対して十分な貴金属が供給されなければ購買力が維持できない)購買力の山と谷をひたすら繰り返している状態です。そのような場合ですと貴金属や宝石類、美術品の投下がもっとも効果的なのですが、元々イングランドの輸入品といえば砂糖・紅茶・綿花・コーヒー・キャラコ・香辛料ですから、比較的安価なものが多く貴金属の投下に対して十分な見返りがあるとはいえません。一方、モルッカ諸島の香辛料を含め東インド・アジアの富を大量に輸入していたオランダはどうか、というとアムステルダムは世界的な貿易市場ですから、東インドの貿易がなくても交易の中心地です。当然貴金属は集まって来やすいので、投下に対する見返りは多いともいえます。直接的見返りは相場上昇による貴金属そのものの売り上げで、副次的な見返りは貴金属の投下によって金利が動くこと、です。金利が動くと、消費動向も変わるので海外輸入品から奢侈品までありとあらゆるものの相場が動くわけです。だぶつきで動くわけではないので、当然貿易商としては売り時になります。市場に十分な量の貴金属が供給されないと、相場は動かない、のです。
この稿の文章をまとめると、特にゲームなどの場合だと交易港の後背地の生産品はなかなか見えない、というわけです。港でまとめて売られていたりするので生産があっても並ばないものは見分けられません。メインの産業よりは需要・供給ともに少ないともいえるのですが、潜在的な生産需要は大抵どこかの交易港ならどこでもあるものなので、一概に加工品が売られていないからといって、原料の需要が低いとはいえません。ちなみに、これは一貫していえることですが、加工品が売られている港なら当然その原料は高く売れます。ただ、相場の高い低いとは無関係で、交易港の後背地を含めたトータルの産業として見た場合に、そのノード(交易拠点、中心地)で過不足が起こっているかどうかで相場は上下するわけです。つまり、加工品の原料だけで見ると相場の上下には時期があり、だいたい一年でちょうど2回来ます。つまり、一年で一周するわけです。まぁ、季節風で船の行く方向が決まっているからでもあるのですが、メインの輸入季はだいたい加工品の原料の価格が上がって(主流)、その反対の季節では今度は反対の方向から入ってくる交易品や原料の相場が、上がります(副流)。この時、原料の相場が上がっているときはだいたい同じ方向からの加工品の相場は下がるのですが、反対方向から来た加工品の相場は上がっています。逆に副流では(オスロではロンドン・アムステルダムなどからの交易品)加工品の原材料があった場合その相場は下がっているのです。ですので、根本的に同じ方向からの加工品と同類の原料の相場が同時に上がることはまずあり得ませんが、上がることがあるとすれば貴金属の供給量によって港に金利の差が生じている場合です。この場合は金利の高きから低きへモノを流すことによって差益が生まれます。金利が高い、というのは港の輸出品の値段は下がり、反対にその港の輸入品の値段は上がる、ということですから(銀行・市場側に貴金属や貨幣がたくさんある状態)海外などからの輸入品はどのみち中継交易しても高く売れますし、メインの産業の輸出品はというと、相場が有利に動くのでこれまた儲かります。ちなみに、普通の商人にとっては地元での相場の動きのほうが大きいのです。海外のほうは、というとちゃんと東インド・西インド会社がありますからそれ専用の決済システムもある、でしょう。つまり、貴金属投下の能動的影響は受けない、というわけなのです。この場合も、あくまで影響があるとしたら、副次的な影響なわけです。つまり、貴金属を投下して相場をコントロールする側も、海外輸入品を売り捌いて儲ける側も、すべて同じ銀行側、東インド会社側、といわなくてはなりません。つまり、どこもかしこもコントロールしているところは、一緒なのです。従って、自分らの食えるシェアの範囲で、貿易することが大事になってきます。逆に、会社やギルドに属さない商人は、割を食うと言っていいほかありません。つまり、シェアというものはそういうもので、既存の何かの組織に入らなければ、分を食えない、のです。逆に、既存の上に新しい組織を作れるのならば、それはそれで将来に渡って利益を享受することができるでしょうけどね。しかしながら、どちらの場合もシェアを食い過ぎると、割を食わされるので結局は既存の組織に最初は入ることになります。組織の外でプレイできることがあるとすれば、最初から自分で組織を作った場合、などでしょうね。まぁ話が逸れてしまいましたが、結局は後背地にも目を向けよ、ということなのです。目に見えている世界だけを見ていても、世界は何も変わりません。常に現状を見直し、新たな世界を切り拓いてく姿勢こそ、肝要となります。モノは見方で変わります。見方一つで、この世界の在りようはガラッと変わるのです。
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陣立てと機動

はい、陣立てと機動です。ここでは、どんなことを書くかというと陸戦・海戦を含め陣立て(陣形など)とその機動がどうやって関わっているのか、どのように影響しているのか、という分析について、です。前、ゲームはすべて位置関係というのを書きましたが、それをもう少し分かりやすく書きなおしたものです。陸戦・海戦・兵法に興味のある方は、是非最後までお読みください。そんなに長くありませんからね。

簡単に、というか率直にいってしまうと、陸戦・海戦などの兵法の抄はすべて陣立てと機動(Maneuver)に集約されています。というか、正しくいうと陸戦や海戦におけるゲーム理論的なアプローチからいってもすべて陣立てと機動、なのです。英語では機動のことを主にマニューヴァーといいます。まぁ、動きとかそういう意味ですね。一応、これはある一つのゲーム内で、という制約付きなのですが、とにかく陸戦や海戦などのゲーム理論で集約できるものは、すべて陣立て(陣形)と機動(マニューヴァー)なのです。これは、先のゲームはすべて位置関係というところで書きましたが、ゲーム理論でいうゲームにおいて、その個々の優劣や有利不利を決めているのは、すべてその個々同士の位置関係・相関関係だったりします。例えば、弱い部隊と強い部隊が当たると、そこでは弱いほうがだいたいは競り負けますよね?なので、全体の戦局をコントロールする上では、弱いのは比較的弱いの同士、強い部隊はなるべく強い部隊と当てるようにします。こうすることで、全体的に戦局を安定させることができ、全体的な消耗も防げる、のです。このように、ゲーム理論でいうゲームとは戦争にしろスポーツにしろなんでもそうですが、すべて個々の位置関係もしくは互いの相関関係で成り立っているのです。ゲーム理論的に、位置関係や相関関係ですべてが決まるということが意味しているのは、個々の優劣や有利不利が全てそれで決まってしまう、ということなのです。という点から辿って考えていくと、そのゲーム理論的な位置関係や相関関係を決めているのは個々の動きと態、つまり、陣立て(陣形)と機動なのです。陣立てはまぁ個々の陸戦であれば部隊同士の位置関係や相関関係でもありますし(ここでは詳しい陣形の紹介については避けます)、機動というのはその位置関係をいじることでもありますしそれで相関関係も同時にリアルタイムに変わるものでもあります。つまり、ゲーム理論的なゲームというのはすべて陣立てと機動で決まっているのです。ゲームは2,3手を繰り出せばすぐに決着が付く、というのは前のゲーム理論に関する項で書いた通りですが、根本的な、ゲームでの有利不利や優劣というのはすべて個々の位置関係や相関関係で決まっているのです。つまり、それをいじるのは陣立て(陣形)と機動(マニューヴァー)というわけで、陣形と機動がすべてを決めているのです。これは、何も実戦やゲームに限ったことではありませんが、古来攻撃を受けて耐えられる者や防御を続けて勝てるものはいません。とにかく、どんな場合であっても損害を最小限に抑え、戦局を有利にしてく。そういう精神の元だと、やはり基本的な部隊の態となる、陣形とそれを動かす、あるいは敵との位置関係、相関関係を変える機動(マニューヴァー)は必須なのです。そもそも、攻撃を受けたり防御を続けたりして耐えられるものはいないのですから、とにかく一個一個の負担を最小限にするべく絶えず移動して、あるいは機動してとにかく一個一個の損害を最小限に食い止める必要があるのです。結果的に、総合的な損害や損失が小さいほうが大抵は勝ちますから、戦いはとにかく敵を倒せ、というよりも、損害を小さくすることが勝つ秘訣と心得て、できるだけ味方の損害を最小限に、絶えず機動して、というのが基本になるのです。風林火山の喩えの山の如し動かずに、というのがありますが、あれば基本的には戦いのセオリーは損害を最小限にしながら機動して戦うので、それでいて動かないのは相手に威圧感を与える、とただそれだけのことなのです。実際、風林火山といっても見えないところでは絶えず移動、機動していますし、そもそもあの教えというのも相手に悟られぬように、動け、と抄はそんなところだろうと思います。実際、全く動かないではただ座して戦況を見つめていることに他ならないので、実際の普通のゲームや戦いでは損害を最小限にするべく絶えず動きまわって戦況を動かしていくことになります。戦争でもスポーツでもそうですが、動いて互いの個々の位置関係や相関関係を調節というか調整することで個々の負担は減りますから、より広く全体を俯瞰した者の勝ち、より全体の広い範囲を見渡した者の勝ち、なのです。戦いやゲームとなると、どうしても目の前のゲームに集中してしまいがちになりますが、陸でも海戦でも、戦いやゲームの抄というのは常に陣形や機動にあります。絶えず動きまわって陣形や機動を象(かたち)作ること、これを欠かさなければ、百戦危うからず、というわけです。まぁ、うまく行かなかったとしても、そう酷い負け方はしないでしょう。陣立て(陣形)とその機動を押さえること、これが、戦いやゲームで勝っていく上での必須条件なのです。
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2015年06月24日

国力増強論

国力増強論、ということですがこれは決してタカ派のいうようなただひたすら戦争に突っ走るための国力論ではありません。むしろ、もっぱら戦争を止めるための論でもあるので是非最後までお付き合いください。

まず、主旨ですがこれはどういうことか、といいますと国力、特に軍事力と経済力、それから外交政治力を掛け合わせたものはすべてある時代において一定の範囲内に収めなければならない、ということです。もちろん、これは一国について、ですが国力というものは増大に歯止めが利かなくなると破綻的結果をもたらすものです。これはどの国についてもそうなのですが、その時代は周囲の情勢の許容する範囲内に国力を収めないと、そもそも危険極まりない結果になる、ということなのです。これを言い換えると、国力増大にインフレ抑制をかける、ということでもあり実質国の持つ軍事力と経済力すなわち貿易力の総量に歯止めをかける、ということでもあります。これについては近世などのヨーロッパの資料をあたると分かりやすい、でしょう。といいますか、そもそも国力という発想自体実は世界、地球に国境線を作るも同じで一個の国の単位として世界というよりはある地域を見た場合の言い方です。つまり、国力という言葉そのものがそもそも危うい軍事主義者寄りの発想で、平和の敵、時代遅れの発想というほかありません。まぁ、これについては置いておいてですね、ある時代のある国の国力(軍事力・経済力・その他政治力)の総量は常に一定以下でなければならない、ということです。つまり、国力にインフレ抑制をかける、ということですがこの一定以下をどう決めるか、といいますと単純に周りの国とのパワーバランスと紛争などのフリクションを抑える形でだいたいの値を決めます(決め得る)。この値は多分指数的になると思いますが、とにかく国力の総量を値に換算する形である時代において一国のその値が基準値(一定値)を超えないようにする、のです。つまり、国力の過増大を抑制する、ということなのですが、これは政治歴史経済を知っている人なら当たり前かもしれませんがある時代において、戦争や国際的紛争に発展するのはだいたい決まってどこかの国が過度に国力の増大を起こしたため、という場合が多いです。パワーバランスの本については読もうと思ってもなかなか読んでいないのですが、それでも国力にインフレ抑制をかければ戦争は起こしません。戦争に関わる軍事・兵器会社などは大抵戦争が起こると利益が増大する=国力の過増大する国の思惑とマッチする、ため大抵は国、特に国力の過増大傾向にある国は軍事会社などと癒着がある場合が多い、です。というか、どこの国も大抵は軍事会社と国は癒着しているものですが、それが戦争の水準に行くか行かないかは単にその国の国力が一定範囲を超えるか超えないか、で見分け区別することができます。つまり、過度の国力増大に抑制をかけて、国力のインフレ抑制をすれば戦争どころか国境紛争にもならない、わけでそういった地域紛争の起こるところには必ず軍事産業の影がある、と思っていいでしょう。国力という単純な指標を使って見てきましたが、要は国の国力が一定数値を超えなければ戦争は起こらない、ということです。また、これは言い方を変えるとそもそも国の国力、という一国の基準でしかない値で戦争をするかしないかを決めるのは誤りであり、最初から調和のもとに世界の視点で動くべき、なのです。国の国力、という視点を捨てた瞬間に世界平和は始まります。つまり、一国だけの視点では到底いけない、のです。
国力の過増大抑制と、世界平和を同時に為し得るにはどうしたらいいか。これには、いくつか案がありますが例えば権力抜きの世界会議だとか、地域議会や地域会合など、です。企業や国といったある一定の縛りの集まりでしかない集団で集まっても、答えが出るはずはありません。なら、地域や国(周辺国)で集まって会合をやればいいじゃないか、ただそれだけのことです。戦争は、意図しなければ止められません。誰かが思い立ち、そして皆が一丸となって行動する必要があるのです。すぐに具体的に行動に移す必要はありませんが、例えばブログやメディアなどでもそうです。個人の発信できる範囲で、具体的な行動として示せばいいのです。ことさら、戦争や世界平和、貧困や飢餓撲滅に関しては自分の意見を言った者勝ち、です。もちろん、それは世界平和というある一定の方向性の元に為し得る、向かうべきなのですがおtもかく良いこと、に関しては自分の意見を言った者から、世界が拓けていきます。もう、国やある特殊な団体の会合や交渉に任せておいてはいけません。皆が一丸となって、といえど個人がもっと積極的に活動する、必要があるのです。世界平和は皆の協力が必要で一人では為し得ません。しかしながら、その行動は一人の個人から起こしていかなくてはならない。行動しなくては、何もない。ただ、その行動ですら、積極的に行う必要があるのです。各国の人にはそれぞれの役割があるといいます。ただ、これを読んだのが誰にしろ何か行動を起こさないといけない、のです。一人、あるいは国や一つの地域だけの視点では、到底世界平和など為し得ない、のです。今こそ個人一人が世界の視点に立って行動するべき、なのです。もちろん、無理をしたり今すぐ具体的な行動に移す必要はありません。ただ、個人一人一人が世界平和の重要性を忘れないでいてほしい。今日は、そんな願いを込めて筆を置きたい、と思います。ご静読ありがとうございました。
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物語と小説

はい、というわけで、物語と小説です。今回は、物語と小説の定義について。特に運用上の利便性が上がるので運用上の定義、という形で書きたいと思います。まず、物語ですが詩(ポエム)でも物語(サーガ)でもないもの、あくまで物語(ストーリー)と呼べるものについてここでは物語、としておきたいと思います。小説については物語(ストーリー)の下級概念でnovel つまりあくまで娯楽目的の物語を小説と呼ぶのでしょうかね。ここでは特に文字文体で書き表されるもののうち、物語の下位概念で詩(ポエム)でも物語(サーガ)でもないものを小説、とここでは呼ぶことにします。物語も娯楽目的のものが多いかと思いますが、古典などのまったくの娯楽目的というよりは、民族伝承・民間伝承のようなものの物語(ストーリー)も存在するので、ここでは物語と詩とサーガは分けます。もちろん詩でも物語態のものは存在しますし、サーガも詩でもあり物語の形態を取っていたりしてごちゃごちゃなので、これらの上位概念は主に宇宙としてここでは物語(ストーリー)と小説(ノベル)のことについて書きます。その他詩作品や不定形詩、小話などの文学作品は比較的下位概念になるので、ここでは明記を避けます。

小説は物語の下位概念ですから置いておくとして、(つまり小説も物語も一緒のもの、なのです。その中でも特に文芸作品で娯楽作品寄りのものを、小説とここでは呼びます)物語とは何か、ということになると宇宙に物語(ストーリー)という関数を入れた際に出てくるもの、です。なので、ストーリーは生命体の数だけありますので、ほぼ無限に出てきますね。その一個一個を、物語(ストーリー)と呼ぶことにします。ちなみに、小説はというと物語に小説(ノベル)を入力したもので、物語の中でも特に文芸作品で娯楽作品寄りのものを小説、とここでは呼びます。まぁ、下位概念なのでさらっと無視しますが、小説にフォース(力学的波動;振動)を入力すると、今現在そこにあるかのような臨場感を出すことができます。入力する、というのは喩えで要は小説に宇宙あるいは宇宙の法則のようなものを入力すると、すさまじい臨場感が出るわけです。逆に、フォースの入っていない小説は、臨場感や知的整合性に欠ける、とも言えます。まぁ、要は小説に全体や宇宙を入力すればいいのですが(ここまで関数の話が入り混じっていますがお分かりいただけるでしょうか?)魂と通例呼ぶものは一個個体の魂というものではなく、どちらかというとフォース(力学的波動;振動:宇宙全体の波動と呼応するもの、特に全体での振動)あるいはフォースの一部、なのです。つまり私たちは常にフォースの一部、というわけで小説にもフォースが流れていないととてもではないが臨場感は出ない、というわけなのです。まぁどうやって小説にフォースを仕込むのか、というのは主にここでは関数的な話をしているので避けますが、とにかく、物語の下位概念が小説で、そこにフォース(力学的波動)を仕込むととてつもなく臨場感が出る、ということが言いたかったのです。言いたいことはこれだけですが、何事も宇宙と入力すると、それそのものの宇宙が出てきます。宇宙とは、というと宇宙そのままになってしまいますが、関数によって出てくるものを私たちの脳の世界と呼び、その世界は関数で概ね表すことができる、とでも言っておきましょうか。これについては苫米地英人氏の「Dr.苫米地 宇宙を語る」が詳しいので興味のある方は是非そちらをお読みください。

話を戻しますが、小説とは物語の下位概念です。つまり、文芸作品的に書き表されたものを小説、と呼ぶのですが(サーガやポエムも大まかにいえば物語(ストーリー)なのですがはっきりいって宇宙が出てきてしまうので、ここでは物語(ストーリー)とサーガやポエムは分けています)小説は物語を書き表したもの、ともいえる。つまり物語の一部なので、物語の個別的定義だけしておけばいいのですね。物語とはここでは宇宙のうちサーガでもポエムでもないもののことを言うのですが、具体的に詳しくいうと伝えられるもの、で中身があるもの、ということでしょうかね。とにかく、物語(ストーリー)は生命体の数、星の数ほどありますので抽象化された生命体の中身(のようなもの)とでも言っておきましょうかね。とにかく、この稿はこれで終わりです。少し物足りないかもしれませんが、また詳しいところは後述の稿に預けます。それでは失礼しますね。お疲れ様でした。
posted by skywalker at 17:04| 愛知 ☁| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

交易と釈迦の教え

はい、交易と釈迦の教え、ということですが、この稿は単純にまとめますと釈迦(紀元前500年頃)の教えの中に交易に関すること、しかも論理的にそのまま応用が利くことがそのまま残っている、ということです。「超訳 ブッダの言葉」を読めば分かると思いますが、ちゃんと交易に関する教えのことが書いてあります。ざっと内容をまとめると、酒・武器・武具・動物を殺した肉・その他嗜好性の高いものは運ばない、それらを売る商売はやめる、ということです。なぜかというと、それらは本来人のためにならないものであるからであり、これはどの時代にも通じます。酒などは、まぁ人のためにはならない、として武器・武具は本来人を殺すものであるから、ですね。そのようなものは、運んでも本来人のためにならない、ということです。動物を殺した肉も、殺生ですからその場に住んでる農民が食べるならまだしも、売り物にするべきではない、ということですね。嗜好性の高いものというのも、酒と同様に人をダメにするものだから、です。例えば、麻薬やタバコなんかもそうでしょう、かね。タバコのすべてがダメ、というわけではありませんが、釈迦の教えでは少なくとも(その頃のインドにタバコのようなものがあったのかは分かりませんが;水タバコ)嗜好性の高い依存性のあるものは、ダメということのようです。こう考えると、なるほどどれもダメなものばかりだなぁ、と思われるかもしれませんが、本当にそうなのですよね〜。これらの商品は、実は運んでもあまり値幅の付かないものばかり、です。相場も低いことが多いですし、(17〜18世紀のタバコとカカオは例外かもしれませんが)基本的に嗜好性が高くて依存性の高いものは総じて相場が低く、利幅も付きません。ちなみに、動物を殺した肉や、武器や武具を売ることはそのものが本来外道である、という考え方で、利幅が付くつかない以前の問題にそれを売って儲ける、ということ自体がダメなようです。まぁ動物の肉に関していえば集落でも調達できますし、武器や武具は本来必要ありません。酒や依存性の高いものについてもそれそのものを売ること自体がダメなようですが、人をダメにする以前にそもそもそういうものを売ることで売ってる人もダメにする、という意味もあるようです。もちろん、酒類もそれほど利幅の付くものでもないですし、そもそも土着で愛されていなければそれを好んで飲む、という人も少ないでしょう。薬については扱うといってもそもそも治療目的ですし、一般に出回るといっても主にハーブだけでしょう。もちろん、植物の、ハーブです。近世以来では薬を扱う人といっても医師や薬剤師・錬金術師などのほんの一部の人だけでしょうし、いまでも医師や薬剤師以外では薬を扱うことは原則できません、よね?そういう意味では、人々を治す薬、というよりも依存性の高い麻薬や薬物などの薬、薬物といった意味が大きいようです。とにかく、嗜好性や依存性の高いものはダメで、なぜかというとそれが人をダメにするもの、だからです。世界各地で古くから使われているハーブについては、何ら問題ないでしょうが(なんか今のアメリカの高度医療問題に似ていますね)まぁそれも民間療法の範囲だからで、そもそも病気をするべきではない、というのもあるかもしれません。ともかく、今後は現代においても民間医療や民間療法をもっと発掘して増やしていくべきで、薬に頼るべきではない、とも思います(これは余談ですが)。ついでにいうと、今問題になっているグローバル企業といえば、ほとんどがここで挙げた「売ってはダメなものリスト」に入っているものを扱っているところばかりではありませんか?あれは満更企業だけではなく、それを知らずに消費してしまう私たちにも責任がある、のですよ?皆が自覚を持って、そういう類のは未然に防いでいかなければなりません。何事も一人の心がけから、なのです。まぁ、話がちょっと脇道にそれてしまいましたが、基本的に売ってはいけないものは捌かないほうがいい、ということなのです。また、例えゲームといえど実際にやってはいけないことはできるだけ避けたほうがいい。なにより、自分のためではないのです。そんなことは、やっても少しも自分の為にはなりませんよ。無意味なものから順に吟味されていくのがゲームの世界の常でもありますが、その世界の中にも現実と同じ物理空間のルール、というものは存在するのです。なので、その辺は遵守してもらうように、ゲーム会社の方には気をつけてもらわねばなりませんね。なんか説教くさくなりましたが、今回は以上、です。余計なことをするは人の為ならず、よく覚えておきましょう。それでは、また〜。
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交易理論概論U

ということで、交易理論概論Uです。Uとしたのは、先に交易場理論というのがありましたがその関連に当たるから、です。まぁ、適当に軽く順番を付けただけ、で大して意味はありません。というわけで、今日の概論としての大まかなところは……、そうですねぇ、ざっくりいうと交易の重要な流れ、というか重要なポイントというのはトレードノード(交易拠点港)間のモノの流れのことである、ということです。どこに誰が何を運んだ、という比較的排他的な交易の事情による例外的理由、ということではなく単純に、トレードノード間の流れとして拠点港間をどのようにモノが流れているのか、というのが重要なポイントになります。 http://www.eu4wiki.com/Trade_nodes を見ていただけると分かると思いますが(EuropaUniversalisWというゲームのトレードノードの概念です)交易・貿易の拠点港間のモノの流れ、というのはその時代にもよりますがだいたいメインの流れというのは決まってどちらかに流れているものです。つまり、交易でのモノの流れ、というのはより力のある方へと流れていくので、特に近世貿易などの場合だと貿易の流れは一定方向です。対して、貿易のある一定の流れの輸入元から対価として支払われる交易品は、そのトレードノード間の流れに含まれます。つまり、一定方向にトレードノードの貿易が流れていたとしても、その反対には常に対価としての交易品の支払いがある、ということなのです。なので、交易品の対価としての輸入元からの輸出交易品は、トレードノード間の流れに含まれる、ということなのです。もちろん、一定方向にモノが流れていたらその対価として、ですから表向きの流れとしては見えなくても実質は対価としてのモノの流れは常にある、ということなのです。話を元に戻します。この論というか稿の主旨は、交易での重要なファクターはトレードノード間(交易拠点港間)のモノの流れである、ということです。モノにはもちろん、交易品からお金(貨幣)、決済手形までなんでも含まれます。とにかく、交易において財と呼ぶものは、すべてトレードノードを流れていき例えば先のリンク先のゲームのような地方間の流れに概ね準拠するよ、ということなのです。分かりやすくいうと、トレードノード間の流れが全てであり、概ね(特にゲーム内の)交易というものはトレードノード間の流れ、言い換えるとその時代の主な貿易や交易品の流れのルートに乗って行うと、上手く行きやすいし儲けも出やすい、というわけなのです。論旨としては以上なのですが、ここで例外について見ていきましょう。例えば、この論に従わない形、となるのですがトレードノード間の流れを逆流あるいは逆らって行った場合、どうなるかといいますと例えば儲けが出なかったり思うように交易が進まなかったりします。というか、それ以上に主なモノの流れに逆らっているので、上手く相場が合いません。そのような場合で儲けが出るのは、大抵行きか帰りのその時代のトレードノード間の流れに準拠したルートで出た儲けが、帰りの逆流で出る儲けを軽く超えている場合です。そのようなケースは、大抵相場が通常時と逆になっているためで、ちょうど相場の影、午後三時ということもできる、のです。基本的に、どんなゲームでもちゃんと相場がプログラムされていれば、基本的にはその時代のトレードノードの流れというか交易の流れに準拠しているはずですので(それに準拠していないゲームは到底ゲームと呼ぶことはできません。リアルあってのゲームなので)トレードノード間の流れに従っているルートが、儲けが出るルートと呼ぶことが出来ますし反対の帰りのルートというのは、ちょっと儲けが出にくい副次的なルート、と呼ぶこともできる、のです。大抵、決まって行きのノードに準拠したルートでは、自由度は低くても儲かる商品が決まっているので、儲けは出やすいともいえるし、反対に帰りのルート(行か帰りかはその地方による)では自由度は高い分その分儲けが出にくいかもしれない、という現象も起こるのです。トレードノードの流れに準拠していれば、そもそも儲けが出やすいのですがその反対の帰りのルートでも儲けは出ますが(というか出にくいけれども)それがメインのルートに対して副次的なので総じて儲けが出やすい、という仕組みになっている、のです。なので、分かりやすくいうとトレードノード間の流れに従っているルートが基本的には儲かりやすいルートで、それを逆流するルート、従わないルートで貿易しても、あまり利益は出にくい、ということなのです。まぁ、簡単にいってしまえばその時代のメインの流れに逆らうから儲かりにくい、のであり逆にその時代のモノの流れに従っていれば多少航路が短くても積載量が少なくても儲かります。しかも、ここで重要なのはトレードノード間の流れに関して言えば船の大きさは関係ない、ということ。確かに、トレードノード総量での貿易量は大きめの船の一隻あたりの輸送量に依存しますが、トレードノードに際していえば一個あたりの輸送量が少なければ相場への緩衝からそれだけ需要に応じて小型船でも輸送船量(隻数)が増えますから(それに応じて大きなサイズの船も増える、ともいえる)、結局は、総じて一緒、なのです。従って、個々の多寡はあってもトレードノード全体での流れの量には大して影響がない、ということ。どんな大きさの船でやろうとも、変わるのはそのトレードノードにおいての効率だけで、大して何も変わらない、のです。しかも、さっき書いたとおり船のサイズが小さくても、それに合わせて交易の需要は増えるので隻数も増えればサイズもだんだんと大きくなっているのです。なので、船のサイズが小さくても、何ら問題ない、というわけなのです。一国の視点から見れば、たしかに大きなサイズの船も上手く使ったほうが総じて儲けは大きいのですが、そもそも大きな船はそれだけ愚鈍ですし建造費・整備費もかかります。なので、船の適材適所といいますかモノというのは何でも適した役割というのがあって、必ずしも船の大きさが大きければいい、積載量は多いほうがいい、というのは完全に誤り、なのです。トレードノードでの交易の効率というのは「ある時点」で限定して観た場合のみの効率で、結局大局的な視野に立てばなんら変わりありません。そうじて、どの国によって、であっても交易・貿易は常に健全に行われるものですから、基本的に一商人としてはトレードノード間の流れに従って交易を行っていれば、なんら問題ない、というわけです。よく効率、輸送量という言葉が聞かれますが、あれは交易ルートの距離に応じた話でなければ完全に間違いで、例えば近場で、というか同じ地方であれば最低限運べて移動速度・小回りも速い、というほうがだんぜん効率がいい、のです。(例えば、スループやスクーナーなど縦帆の船。)大きな、シップ型の船が効率がいい、というのはあれは断然航行距離が長いためで、それに合わせて積載量が多ければ効率がいい、というだけの話、なのです。例えばオランダのイーストインディアマンなんかはそうですね。あれは、最悪に遅い船、と揶揄されましたがその話の元もはっきりしているもので単純に航行距離・輸送距離が長い、ためです。遅くても効率が良くなるのは圧倒的な長距離を航行した場合のみ、で遅い=積載量が多いというのもぴったり一致している、のです。従って、ある限られた範囲であれば当然小型か中型の船のほうが効率が良くなるわけで、それ以上に効率を上げよ、という話になるとやはり隻数を増やすか小型でも輸送量の比較的多い船を作ればよい、という話になるわけですね。例えばその例だと、時代をちょっと遡りますがオランダのフリュート(フライト)、というわけになるのです。あれも速度よりも積載量を重視したので有名ですが、大型船のそれほどではないので、限られた範囲であるけども比較的感覚的長距離、という場合には有用というわけです。例えば15〜16世紀のバルト海交易などが、それにあたりますね。アムステルダムと、ダンツィヒを往復する航路となると輸送量を重視する、という考え方も分からなくもないですから、(しかもそれ以上にフリュートの時代にはスループやスクーナーが無かった、ということもあります)その場合では、限定的積載量重視の輸送船、という考え方もあてはまるわけです。まぁ、船とは適材適所、というわけですね。というわけで、この稿は終わりにしますが、いかがだったでしょうか?また、気になること、感想ご質問等あれば受け付けております。なんでも気になること思ったこと等で結構ですので、気軽にお寄せください。また、こう思った、というのでも結構です。それでは、お待ちしております。ではでは、また後ほど。
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2015年06月21日

交易は等価交換で

はい、交易は等価交換で行いましょう。といっても、何のことだか分かりませんよね?交易とは、モノをモノ同士あるいは貨幣と交換する行為です。古くは物々交換から来ていますが有史以来交易というのは人類史の重要なファクターのひとつでした。では今日はその交易について、ちょっと基本原理というかコツのようなものをご紹介しましょう。知っている方も多いと思いますが、交易と等価交換について、です。
等価交換については、「鋼の錬金術師」で知った方も多いと思いますがモノとモノと等価、等しい価値で交換することです。こうするとちょっとざっくりしすぎですが、例えば物質精製や化学反応においてもモノというか物質は基本的に等価交換されます。つまり、ムダもなければ足りないものもない、のです。ざっくりいうとモノの交換の過程において過不足の絶対生じない状態を等価交換あるいは等価交換の原則と呼ぶのですが、過不足の絶対生じないという点においてはどちらかというと物理実験の等価交換寄り。モノとモノを等しい価値で交換する、という点においてはどちらかというと交易寄り、です。今回のは交易についての稿ですのでそこに重心を置いて話を進めていきましょうね。

交易での等価交換というのは具体的にはテクニックのようなもの、です。物質の等価交換の原則は物理や化学において、ですが交易自体がモノとモノあるいは貨幣を交換する行為、ですのでそもそもそこでの等価交換といっても確かに基本原則でもありますが基本的にはテクニックの部類の一部にも入ります。テクニックですので具体的にどういうものか、と説明すると要は自分で等価交換と思えるようにモノとモノを釣り合わせて交換することです。モノで釣り合わすことのできない場合は少量を貨幣で払います。例えばこれは例外ですが銀や金などの貴金属や宝石、高級品などの交易品は貨幣で兌換したとしても等価交換が多くの場合成立します。なにせ、近世までの交易は貨幣といってもほとんどが金貨や銀貨、銅貨などでしたので硬貨でも貴重な資源扱いですので貴金属や宝石などとの交換でも等価交換は成立するわけです。もし貨幣に兌換性がない場合は銀や金などの貴金属でも支払い対価として使えるようです。実際、オランダの東インド交易において香料諸島の香辛料の決済に日本の銀が使われていた、という例もあります。金のクーバン(小判)も実際にオランダに現物がある、ようです。徳川幕府のものですね〜。まぁ、要は貴金属なども通貨に兌換性がない場合は決済方法のひとつとして使える、というものですが基本的には通貨の通じる範囲、あるいはまったく貨幣の通じない異国などの環境においてはやはり基本的にはモノとモノ同士の物々交換あるいは等価交換になります。物々交換ということは等価交換でないといけませんから、お互いの同意できる範囲・量で等価交換することになります。交易の原理というのはこのようにモノ同士の物々交換あるいは等価交換ですので、通貨を差し挟んでも等価交換の原則は変わらない、というわけです。つまり、結論からいってしまうと交易やモノの交換はなんでも等価交換で、その原則を破れる例はない、というわけです。物理実験の等価交換の原則がここでもあるわけなのですが、とにかく、モノとモノの交換、それどころかほとんどすべての交換などは等価交換が原則、というわけなのです。モノの交換の例に戻りますが、とにかく交易などは特にモノとモノをお互いが等価交換と思える範囲で交換する、というのが基本原則になります。通貨などは、交換の足りない分を補う範囲で、基本的には交易はモノとモノの交換ですのでできるだけモノ同士で交換するというわけです。船の数と、便数(帆船時代は季節風の交易なので時期によって限りがある)には限りがありますのでそこを往復する船は、貴重なのです。なので、できるだけムダのないようにモノを積んだほうがいい。確かに、よほど儲けの期待できない場合はモノを積まずに、バラストだけで、というケースもありますが、基本的には、中立国間あるいは地域を交易する場合はできるだけモノを積んだほうがいい、のです。ただ、あまりにも儲けの期待できない場合は積む必要がありませんから、そこは高級品を運んで補うとして基本的には姿勢としては船倉の余ったスペースに、何かを積んで、ということになります。実際、目当てのもの以外を積むことによって新たな気づきや発見、思いもよらぬところに目が行くこともありますから、それはそれでとても有益なのです。第一、メインの人気品だけを交易する交易をしていては、相場のことなど分かりません。基本的な交易論を押さえている人ならいいですが、それでも交易しているのに相場のことには疎い、ということになりかねません。大洋貿易ならいいですが、地域交易で相場を知らないなどほとんど論外です。やはり交易している以上は相場も知らなければいけませんからある程度は空いたスペースに適当に気になるものを積むといいでしょう。そうすろと、相場について知ることもできますし何より新たな航路の発見にもつながる、のです。これはどんなこと・モノでもいえることですが、モノに向き合う時はそのモノをよく観察することが必要で、その観察が後の経験や勘を養う、のです。モノは何よりもまず、情報ですから船倉の空いたスペースでもいいので、気になるものやおもしろそうなものを積んで相場を見てみるといいでしょう。そうすると、モノを見る目がガラッと変わると思います。話がちょっと逸れましたがとにかくモノというものは等価交換なのです。船主のことだけを考えるのなら確かに利幅のいい物を、最大限積んで、なのでしょうが相手の街や交易所のことも考えるのなら、やはり適度にモノを卸して適度にモノを買っていく、そういう姿勢が必要です。何より、街と船にとっても在庫の過不足が起こりませんし、経験や勘を養える上相場のことについてもよく知ることができるためいいことづくめ、です。多少の過不足による損失などはあるとは思いますがそれでも得られるものに比べたら断然少なくほんのわずか、なのです。主要の論は空いたスペースにできるだけモノを積んでいけ、になってしまいましたがこの稿の主旨としては交易やモノの交換はあくまで等価交換である、ということとそれは基本原則である、つまり守っていれば基本的には何も問題ないし得をしていくことも多い、ということなのです。交易はモノの交換といっても、ただ単なる物だけを扱っているわけではありません。モノとしての情報もありますし、付加価値もあるのです。ただ交換するのが交易ではない、というわけなのです。そこには、多くのドラマと感動が込められて、いるのです。あまり物理的にならず、情報的な部分もやりとりできるトレーダーになるといいですね。今の社会となっては確かに利益第一なのかもしれませんが、それでも本当に利益を考えるのなら余分なスペースには少しでも役に立ちそうなものを積んでいくべき、です。人類としての核心的利益を追求することが、本来の利潤追求というものであり、決して表面的なものだけではありません。物理的な欲に囚われると、待っているのは、死です。この世に執着せず、上手に生きるには、まずは自分の姿勢ありき、なのです。表面的なことに捉われずに、モノの真実を見つめることを繰り返していけばいいでしょう。そうすると、いつかはモノの真の価値を見抜ける人になるはず、です。交易の話かもしれませんが、そもそも交易とはある意味人類においてもっとも重要なファクターだったかもしれない、のです。細かい作業をバカにせず、モノ、それから物質世界に価値を見出していける人になりましょうね。それでは、この話はこれで終わりです。ご精読ありがとうございました。
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2015年06月18日

資本主義の終焉と富の再分配

はい、というわけで今回は資本主義の終焉について、です。といっても、いきなり終焉が来るかどうかは普段の私たちには分からないわけですね。終焉といっても、極めて民主的に行われるべきであって決して破壊行為や取り壊しなどによって資本主義が終わるわけではありません。世の中が発展すると常にそれを取り壊そうとする連中はいつの世でもいるものですが、今回はそんな方法ではありません。あくまで、よりよい未来を導くための、資本主義を「民主的に」終わらせるため、の方策です。
まず資本主義というものですがここではモノを生産し、それを売るあるいはそれらの工場を資本家が管理し、投資・株式などによって富の収集が行われる、あるいは銀行家・資産家が力を持つ、という構造のことである、ということにしておきます。特に、アダム・スミスの国富論以降の資本主義のことをここでは資本主義と呼んでいますが、次はなぜ資本主義を終わらせるべきなのか、ということについて述べておきましょう。
なぜ資本主義を終わらせるべきかといえば、資本主義というものはそもそも近世の世界的な大規模貿易によってその中から興ったものです。国際的な市場であった近世のアムステルダムなどで資本主義の原型はできました。もっとも、それ以前のジェノヴァやフィレンツェにもあったのかもしれませんが、とにかく、現代的な資本主義の原型は17〜18世紀のアムステルダムでできた、とされています。まぁ、信用証券取引にしろ、投資市場にしろいろいろあったかと思いますが、そもそもアムステルダムのそれらは近世の世界貿易、交易で成り立ったものでした。基本的に、中世〜近世までの貿易・交易の目的は、ざっくりいうと金・銀などの貴金属などの富の取り合い、です。金や銀は地球上で埋蔵量が限られる相対的に貴重なものですから、当然物質世界にまだ正直であった(というか今でも)中世〜近世では当然取り合いの対象です。それを、如何に平和的、安全にしかも合法的に双方の(表向きの)同意の上にやりとりして集めるか、といえば交易・貿易だったのです。まぁ、ざっくりですが基本的な近世での交易品の流れをみてもほとんど金・銀などの貴金属の取り合いにしか見えないわけで、香辛料や織物などの交易の流れをみても、ほとんど最終的なモノの流れの目的は金・銀などの貴金属を取り集めること、にしか思えない、のです。とかく、割と普遍的価値のあって地球上の資源としてもほぼ一番貴重じゃないか、ぐらいの金・銀ですから、当然取り合いの対象になります。近世での特にヨーロッパでの、による貿易の目的はまさにそれだったのではないか、と推測されます。金・銀に限らずそれに相当する価値のものであるのならなんでも富に当たるのですが、近世までの世界的貿易の目的はまさにそれでした。で、そこから派生したのが資本主義だとすると、(まぁそれが悪いかどうかは別として)新しい時代を切り拓くためにはどうもそれを終わらせなければなりません。終わらせるとしても、ほぼ大多数の市民の同意がある状態での極めて民主的な終わらせ方であるべきで、破壊や取り壊し、戦争などの終わらせ方ではあってはならないわけです。ちなみにどう終わらせるか、というと、それは次から書きます。

どうやって終わらせるか、といえば簡単にいって富の再分配、です。富にはもちろん金・銀などの貴金属をはじめ古美術品や工芸品などのそれ相応の価値のあるものならなんでも含まれます。もちろん、ほとんどの場合それらは人間の手によって加工されたものである、というのが大前提になるか、と思います。とにかく、世界中の資産と呼べるものがここでの富で、要は近世ヨーロッパの植民地支配や貿易による帝国主義によって集められた、あるいは奪われて運ばれた世界中の富を、もう一度世界中に再分配するのです。再分配といっても、さすがにすべてをすべて平等に配分するのは難しいでしょうから、(特に現代的な)資本主義を介さない形で分配すればいいのです。ここで断っておきますが、ひとつの国の中で再分配するような社会主義的な方法はまったく支持していません。それどころか、世界的なものである富をひとつの国のものであるかのように扱う社会の富の再分配の考え方は、もっぱら帝国主義的な考え方ですし、資本主義にも反しています。まったくもってそれらの方法は時代遅れであるとともに、この世から消し去られるべき考え方、でもあります。まぁ、とにかく一旦近世には世界中から奪われてきたであろう、富をもう一度世界に再分配するのです。まぁ、すべてがすべての富を再分配するのはさっき述べたようになかなか難しいでしょうから、とりあえずの方法として、金・銀などの貴金属をある程度平等に、というか各国・各地域が資金繰りができる程度に再分配する、というものです。貴金属を世界中に再分配する、というのはいささか世界銀行の反発も買いそうですが、世界中がよりよくあるため、ならまぁ協力しないこともないでしょう。権力者の側としては、自分らが権力を手放した結果誰か他のものによって権力・利権が握られた場合、また利権ができてしまいます。権力を手放そうとしないのは大抵の場合おそらくそのためで、世界中が平和で安定した幸せな社会になるとしたら、そしてそれがほぼ全員が賛成できるような案だとしたら、世界銀行などの権力者も賛成しないわけにはいかないでしょう。もっぱら、権力者というのは他の心ないものに権力・利権が渡るのを嫌うもので、まぁざっくりした言い方をするとそれが嫌だから現行権力を握っているといっても、過言ではないのです。だとすると、その権力の委譲・分割がもっともスムーズに行えるのは富の再分配で、それをどういった方法でやるかというと、交易なのです。

世界的な富の再分配をするには、どうしても交易、しかないのです。もともと、資本主義の成り立ちは世界的な貿易によるもので、富の一極集中が起きたのも金・銀の取り合いがあったから、でした。たしかに、金・銀の取り合いをしてしまったからこそ近世貿易(特にヨーロッパによる)は悪なのかもしれませんが、それ以上に、古代からの交易の根本は「モノを生産して、それを他の場所に運んで売ること」にあったに違いありません。これは交易の基本なので当たり前なのですが、交易というのは基本的には「モノを作って、他の場所に売ること」です。まぁ、生産とごっちゃになっているかもしれませんが基本的に生産と交易、それから流通はワンセット、です。ちゃんとしたものを生産して、それで産業を成り立たせ、交易によってさらにそれを発展させる、という流れは近世までの産業の基本であったはずですが、どこかでそれが狂ってしまった、のです。それを修正し、金・銀などの富を再分配するにはやはり交易によるもの、しかありません。ちゃんとしたモノを作って、それを運ぶ、さらにそれの代価として、少量の貴金属で支払う。もちろん、それらの生産されたものが貴金属の価値に相当するものである必要がありますが、数の歩合をすれば貴金属で決済するのもやおら難しいことではないはず、です。もちろん、貿易システム的には基本的にはお金で払って、その上の取引で少量の金・銀などの貴金属をやりとりする格好になるかと思いますが、とにかく、ちゃんとしたいいものを作ってそれの対価として貴金属やお金を受け取る恰好にする、のです。そもそも近世貿易における植民地支配や不平等貿易などの問題の根本は、「生産者、労働者にちゃんとした対価が払われていなかったこと、あるいは貴金属などの支払いがなかったこと」などが挙げられますが、ちゃんとしたいいモノを作って、それらの支払いに貴金属やちゃんとしたお金が使われるのであれば、もっぱら問題はありません。まぁ、これは青写真なのでなんともいえませんが、基本的な構図としてはちゃんとしたいいものを作ってそれの対価として貴金属を受け取る、というものです。狙いは貴金属の平等で公平な再分配、といったところですが、それにはちゃんとした対価がないといけません。なので、交易(ちゃんとしたものを作ってそれを運ぶこと)の対価として貴金属を受け取る恰好にした形で、モノの生産に対して貴金属や富を再分配する、というものです。それには、ちゃんとした生産型産業の根幹に立ち返る必要があります。

確かに、資本主義はそれらの生産システムを資本と資産家によって効率的に管理する方法、でした。ただ、その世界的な目的が富の集中、収集にあった、ためこのような不平等がまかり通るシステムになってしまった、のです。まぁ、といっても世界中の全員が平等に、というのは難しいですから、そこから抜け出す根本の方策としてまずちゃんとしたモノを作って、運んで売るといった生産型産業の根本に立ち返る必要がある、のです。それの対価として、貴金属類や富を受け取るとしたら、まずくはない方法でしょう。まぁ、これは概論なので、あまり込み入ったことには立ち入れませんが、早い話今の金融や投資によってのみ産業を管理・運営する方法はやめましょう、ということです。もちろん、いきなり全部をすぐにやめる、というわけではありませんが産業の裏付けのないものは金融的に投資しても、無意味です。なにしろ、その産業に関わっていないのに投資だけして、利ざやを抜く、というのもそもそも根本的に問題があります。その生産や産業の資本はその生産者かあるいは管理者(例えばギルドなどです)が持っているべきで投資だけをする資本家が持っているべきではありません。もちろん、投資家は金がありますし、お金を持っている人には存分に寄付や金貸しをしていただいて構いませんから、むしろ金貸しになっていただいたほうが早い、と思います。まずいのは、金融的にのみそれを支配する利権の問題があることで、本来の金持ちや金貸しにはなんの問題もありません。もちろん、今の投資や資本などのシステムもそのように合理的に働いているように信じるしかありませんが。それでも、産業の資本は生産者やそれに関係のある人が握っていたほうがいい。そもそも、大企業が産業のシェアのほとんどを握ってしまうこと自体、産業の多様性を妨げています。多様性というのは本来ひとつひとつの産業が分を守っていて、それらがたくさんある状態が、多様性と呼ぶのです。多様性がないと、コモディティに陥ってしまうのは今経済の基本かもしれませんが、ともかく、産業の資本を持つのは生産者かその産業に関係を持っている人に限り、もしその産業の資本を握りたいのなら自分でそういった産業を作る、べきです。もっとも、それに参入しやすくするのが今の資本制度かもしれませんが、それなら会社に寄付するか会社の人間の一部になるべきで、今のお金さえ払えば会社や産業そのものを乗っ取れてしまう現行制度はもうやめにするべき、だと思います。なによりそういった行為は産業そのものを傷付けますし、結局は一人の利得行動でしかありません。それが何を引き起こすか、といえば権力や利権の独占で、それが国レベルまでいくと挙げ句の果てには戦争です。もうそういった事態は必ず避けなければなりません。そういったふうにするにはどうしたらいいか、というと基本的な生産に立ち戻って、ちゃんとした良い物を作る、それを運んで売るといった産業に立ち戻る、回帰するべき、なのです。金融的にだけ権力を握って、それを自在にコントロールしようとする利権は、必ず破綻します。もちろん、それは世界のためにも、その利権本人個人のためにもよくないですし、そういったシステムはやめなければならない。国際的に、金融資本主義などといってそれを斡旋しているわけにもいきませんから、ともかく何よりも手っ取り早くそういった利権や金融支配のシステムはやめなければいけません、いけないのです。それには、物質的な生産の世界に立ち戻る必要があって、「いいものを作って、それを運んで、売る」といった産業の根幹に立ち戻らなければならない、のです。それで対価として貴金属や富を受け取るのなら、なんら問題ないですしそれが世界中の富を平等にかつ公平に再分配する方法としては、ほぼ唯一の方法なのです。何も生産せず対価のない状態で、貴金属などの富を返してくれ、再分配してくれ、といっても先進国はそれに同意するはずがありませんから、まずはいい物を作って産業を起こして、十分に価値があるものを生産していただく、ということを発展途上国には目指していただきたい、と思います。もちろん、それに必要な資材やお金などのリソースなどは心ある先進国の資産家がこぞって投資すればよいでしょう。何より、産業の発展のためになる、人のためになるお金なら、これ以上ない使い方、でしょう。もう、ただ儲けるためのお金、ではないのです。そもそも、お金というのは紙幣ができるまでは金・銀・銅などの金属の硬貨、でした。それらは生産量に応じた限られたリソースのため、産業のインフレ抑制にも一役買っていた、わけですが(そのためにも貴金属の取り合いや戦争、植民地支配になったわけですが)ともかく、今の通貨流通量にはとてもではないけど紙幣か電子的なものでしか対応できないのはちょっと置いておくとして、お金というのは生産したモノに対しての対価、でした。その生産したモノに対して、正当な対価として支払われる分には別にいいですが、それらを集める利権ができてお金だけで産業を支配する財閥ができたら、その産業はどうなるか、必ず、潰れます。そもそも生産型の産業というのは生産した人が正当な対価を受け取ることによって産業が成り立っていますから、一部の利権が利益だけを得るために利殖してそれを支配しようというものなら、その産業は必ず壊れてしまう、のです。そもそもその産業は生産者のものであって、利殖だけをする投資家のものではありません。もちろん、その産業を主体的に成長させるためだけの一時的な利殖・投資をするのならそれは構いませんが、お金は金融支配の道具ではありませんしそもそも産業をお金で支配するべきではない、のです。生産者が適切に対価としてお金を受け取っている状態、これが物理的生産型産業の本来あるべき姿ですが、これがなければ生産や産業をベースとした経済はもう成り立たなくなります。生産や産業がベースにない経済など、空っぽの鳥籠に等しいですが、ともかく、そんな形では産業や経済は成り立ちません。生産者や生産が産業の主体になる、それが、本来人類の持っていた、目指すべき産業の本来あるべき姿、なのです。これに立ち返らずして、いつ立ち返るのか。私たちは限られた地球上のリソースをやりとりして生きています。もう、待っているべきではありません。本来ある産業のすがたに立ち戻るべき、なのです。それでこそ輝かしい栄光ある未来はあるものでしょう。もう、他人の手に委ねているべきではありません。各々が、自分のできる範囲で、自分にできる生産をしていればいい、のです。もちろん、それは物理的なものでも、情報的なものでも、構いません。とにかく、人の役に立つにしろ、立たないにしろ、何らかの生産をする。そうすることで、人類の未来は拓けていく、のです。もちろん、それは一人一人の双肩にもかかっている、ことでもあります。もし生産しよう、何か生み出そうとしているのなら、それは諦めないでほしい。それは必ず、人類の未来に栄光をもたらすものであるから。お金にしろ資本にしろ、本来ないものは、ないのです。ないのなら、作ればいい。モノを作ることこそが、人類の主幹産業、なのです。
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