2015年05月30日

私たちの普段の生活はすべて言葉が規定している。

はい、私たちの普段の生活はすべて言葉が規定しています。詳しいことは、認知科学者の苫米地英人氏の著書「アファメーション」が詳しいのですが、詳しいところはそちらに任せておくとして、ここで扱うのは要は概論です。まず、初めに述べておかなければならないのはこの稿で書くことも大概の基底は苫米地英人氏の先ほど挙げた著書に準ずるものであり、また筆者もその本(他関連本多数)を読んでいるので大抵は影響を受けている、といっても過言ではありません。なのでこの稿の内容については、基本的に紹介した本に準ずるものだと思っておいて下さい。では、本編に参りましょう。

先ほど述べた通り、私たちの普段の生活は言葉に規定されているものですが、ここでいう言葉とは、普段無意識につぶやく独り言や自分の中のセルフトーク(自己対話)の言葉も当然含まれます。どちらかというと、今回こうして寝る間を縫って書きたくなってしまったのは、それを書きたかったからでもあり、思いついたので手早く書いておいておこう、と思った次第です。なので軽く気軽にお読みください。かといって、内容は結構重要なものなのですがね。

セルフトークの言葉まで普段の私たちの生活そのものを規定しているわけですから、普段使う言葉に対してのアタッチメントは非常に重要になってくるわけです。ただ、ここでそんなに言葉の重要性について書いてもしょうがありませんから、(でも言葉は重要です)簡単な流れだけまず書いておくことにします。普段の言葉については、基本的にはこんな感じの流れに準拠するものですので、ここではそう思っておいてください。(もちろんここの外では違うんだけど、でも構いません。要は、ここの話、ですのでね。)

セルフトークを含め、普段の私たち自身の言葉は、私たちの生活を規定しています。なぜなら、言葉は自分のセルフイメージを作るから、です。私たちの文明社会のほとんどが言葉で構成されています。法律やルールなどの文言も言葉ですし、今言ったような事象を説明するのにも言葉でないといけません。それほどまでに重要な言葉なのですから、当然自分の中の会話を含め私たちの生活を強烈に規定しているもの、と思わなければなりません。しかしながら、その「言葉」にさえ気をつければ、自分を思い通りにコントロールできる、ということでもあります。また自分を取り巻く世界を中心にして見た際に、それらを言葉で定義してさらに言葉で表現・運用できればそれらが思い通りになる、ということでもあります。どういうことか、というとイメージそのものを定義するのにも言葉、というわけですから、言葉にさえ気をつければ、自分の世界を完全に自分の思い通りにできる、というわけです。特に、ここでは自分の普段の言葉に気をつければいいわけで、何気ない自分の自己会話の内容などに気をつけて、「あ、ここはこうだな」みたいに気付ければ、それだけで自分を改善できるわけです。細かい努力は要りません。逆に、大いなるもの(=自分を取り巻く世界の、自分の直感)を感じ信ずることができれば、直感に導かれることができ、しかも細かいロジカルの部分にまで制御できる(直感でコントロールできる)というわけなのです。「フォースを使え」ではありませんが、言葉と直感を使い分ければ、普段の生活は何も問題ありません。それどころか、そうした生活で培った技術と経験は。何物にも代えがたいあなたの武器となり力となっていくことでしょう。自分の直感こそが、最大の武器であり力であり、またそれを定義するのは「言葉」となってくるわけです。ほんの「言葉」と侮らず、毎日を改善の道へ、と乗せていくといいでしょう。それと同時に、自己鍛錬を忘れてはなりません。スターウォーズのジェダイの例えではありませんが、武術も剣術もすべては自己の内面を垣間見るためのツールです。自己の内面を眺め、それに問いかけて改善していってこそ、本当の道がある、というものです。いろんな意味で、自己鍛錬は必要なのですが、その中でも武術・剣術というものはとても便利なツールです。本格的にやらなくてもいいので、体のトレーニングがてらに、毎日のトレーニングに取り入れられてはいかがでしょうか?きっと自己の内面を垣間見ることができると思います。そうやって自己対話を重ねていくことで、自分の本来の世界が見える、というものです。フォースにしろ、直感にしろ、言葉にしろそうですが、なんでも最後は実践、なのです。実際に実行しないと意味がありません。言葉はもちろん重要なのですが、それは具体的に行動をイメージするのに言葉が必要だから、です。最終的には、実行することに意味がありますから、ここで書かれいていたことを忘れずに各々自分の道に邁進していって、ください。きっと、道は開けることと、思います。では、最後に、「フォースがともにあらんことを。フォースはいつも君たちの傍に、いる。」という言葉で終わりたい、と思います。ご静読、ありがとうございました。もしよかったらご感想・質問等残していただけると助かります。詳しくはコメント欄、まで。できるだけ読んで返答いたしますので、もしご興味のある方は、是非。それでは、また〜。
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2015年05月26日

資産を“つくる”方法。

まず、単刀直入ですが、今回のは資産を作る方法です。
具体的に申しますと、資産を形作り、利息を半永久的に廻す方法なのですが、準備はいいでしょうか?

簡単にいってしまいますと、すべてのものに利率を掛ける、ということです。これらの知恵は苫米地英人氏の著書などでも暗に書かれていることですが、今回はユダヤ人男性と結婚して資産6億円になった日本人女性の話で思いつきました。動画を見た際には音声が出ていなかったので内容は見ていないも同じでしたが、タイトルだけでパッと閃いて悟ってしまったので今こうして書きます。あっているかどうかは別として、大事なものは今見ている世界にある、とだけ書いておきましょう。さぁ、次に行きましょうかね。

利率をかけるのと一緒に、もう一つ大事なのはモノ、物理空間の物で、資産を持つことです。この辺は、苫米地英人氏の金融関連本が詳しいのですが、簡単にまとめてしまうと、モノで資産を作る、ということです。なぜモノか、というと現在の通貨などは信用創造でそれそのものに価値がある、というよりも価値を兌換しているだけなのです。ということは、それそのものよりも物理空間のモノに価値があるわけで、本来のモノの価値というのはモノそのものにあるのです。結論にいってしまう前に、情報空間と物理空間について改めて説明しておこうと思います。

これまた結果的に苫米地英人氏の著書から引用してしまう形になるのですが、情報空間とは物理空間の上にある空間でいわゆる脳の空間です。情報でやりとりしているので情報空間なのです。対して、物理空間は情報の空間に対して物理空間なのです。モノがあるだけの世界なので、そう呼びます。

人間がモノに対して価値を見出す時は、大抵情報的な付加価値に対してそれが起こることが多いのですが、結果的に言ってしまうとそうなのです。そうなのですが、ただ通貨という面で見ると、今の紙幣中心の社会は価値を兌換する機能=つまり情報空間の価値に価値を見出すのが中心になっていると思いますのでこういうのに対して物理空間のモノの物理的価値(貴重さ、古さなど)に価値を見出すと世の中のお金の流れがよく分かる、ということを言いたいのです。簡単にいえば、単純に通帳の数字だけの世界に価値を見出していると、お金の価値は分かりませんが、(実際の価値はお金というよりも、15,16世紀などの貴金属の貨幣だった時代のその硬貨の物質そのものに価値があるということ)実際にモノを見て触ってその物理空間のモノとしての価値に目を付けて見出せば、資産に対するモノの見方ががらっと変わる、というわけです。まぁ、単純に言って、モノで資産を形成すればいいわけです。そのモノに自分が価値を見いだせるのであれば、なんでもいいわけなのですが、これが苫米地英人氏が著書で述べていた大体の内容ではないか、と思います。(詳しい著書については自分で探してみてください。わりとすぐ見つかると思います。)

さて、今回閃いた内容に一番近いであろう、すべてのモノに利率を掛ける、ということですが、これはどうなのでしょうか?単純にいって、これは「自分の持っているすべてのモノに対して、長期的に、そしてより安定的に利益を出すように利率を掛ける」ということなのです。もちろん、これは利益といっても単に現在の通貨に兌換できるモノ、だけというわけではなく、自分の将来の成長、今後やろうとしていることに対してどれだけ投資できるか、です。もちろんその中には情報的なモノも含まれますし物理的なモノややる気も含まれます。ただ、やる気というものは情報的なモノにほぼ追従する形を取る、といってもいいでしょう。つまり、「今自分の持っているモノに対してどれだけ利率を掛けられるか?」、なのです。もちろん書いたようにお金的なところだけではないかもしれないですし、当然自分の持っている情報的な部分や価値に対してでもそうなのかもしれません。とにかく、自分の持っているものなら、なんでも利率を掛けて、自分に還元される形を選べ、ということが言いたいだけなのです。自分にいくらか還元されていれば、そのうち周囲の人も巻き込んで利益の還流が起こりますから、周りの人のことに関してはこのことに関してはそれほど気にしている必要はないのです。まずは自分にしっかり投資して、それからやりたいことをやっていわゆる利率を掛けていれば、そのうちに自分の中から内なる価値が溢れだしてくることでしょう。問題は、実際にそうなるか、どうかということではなくどれだけそれが起こると思えるか、信じられるか、ということなのです。この世のほとんどのものは情報空間で、情報空間で重要なのは如何にそこに何があるか、と思えることなのですが、ほんとにそこに何があると信じるのか、思えるのか、というだけで本当にそこに何があるのか、ということが決まる世の中がすでに目の前にあるのです。大事なのは自分がそこに何があるのか、と信じるだけのことで、物理的な違和感や抵抗はほとんど関係ないのです。物理空間にいる人ほど自分の目の前の物理的なことに捉われていがちですが、本当の価値は情報空間を介して見た、物理空間にあるのです。(正しくいえば、物理的な、モノ。)モノで資産を形成することはもちろん大事ですが(当然情報的価値のすごく優れた、物理的なモノというものもこの世に存在します)、情報的なところを介して物理空間の物理的なモノを、“見る”。またはそれらのこと、あるいはすべてのことに利率を“掛けて”、それらの価値を爆発的に増大させる。そうすることができれば、というかそういったことをすることで、自分の身の回りのモノやお金の価値は爆発的に増大していくことでしょう。もちろん、お金の価値といっても、モノや物理的なものに兌換できる範囲に限ります。最初に言った通りまったく物理的でないものにも意味はほとんどないのです。最終的にはやはり、物理的な価値というかモノというところに戻ってきます。それらを増大させるのは情報空間でもあるわけですが、物理的な価値に兌換できる範囲、というか物理的な“モノ”としての価値が、最終的に行き着く先なのではないでしょうか?私たちは、物理的な体を通じて情報空間という世界を見ています。ということは物理的なモノとしての価値は、本来何物にも代えがたい価値なのです。私たちは今ある地球というところでそれらを共有・交換しながら生きています。それらの事実を忘れずに、穏やかに、そして平和に、しかも賢く生きることができればどれだけ素晴らしいことでしょうか?これらが起こるか起こらないかは、単純に今これを読んだあなたが“これ”が起こると信じたか、あるいはどう思ったかどうか、です。何も思わなければ始まりません。しかし、何かを思った人ならばそれはすでに始まっている、のです。どう思うかはあなた次第ですが、ここに書いてあることが起こるかどうかは、あなた次第なのです。続きを読む
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2015年05月24日

騎兵(奇兵)には騎兵(奇兵)、で

先ほどの掎角のところで思いついたのでついでに書いておく。

まず、唐突なのだが騎兵(奇兵)には騎兵(奇兵)で、ということなのである。

まずこれを知らない人のために解説しておくが、日本における騎兵の語源は、

寄せ集め、または奇怪な動きをする「奇兵」から来ているのではないか、と思われる

(確かどこかにも書いてあったと思うが)。なので、日本における騎兵は少なくとも奇兵を兼ねている、のであり寄せ集め、でありまた奇怪な動きをする、しかも動きがいいので遊撃部隊にもなる、そういったものを騎兵(奇兵)として定義しておきたい。が、もっぱらこの稿での定義は騎兵としての扱いである。なのでそう思っておいてもらいたい。もちろん奇兵としての扱いもあるが。


この稿での主要な主張というか、趣旨は騎兵(奇兵)は抜け駆けしろ、ということである。まぁ戦術ゲームやら戦略ゲームやらまったくやっていない人にはちゃんちゃら意味不明だと思うが、一度か二度でもゲームと呼ばれるものをやったことがある方には多分お分かりだと思う。要は遊撃部隊は抜け駆けをしろ、ということなのである。また、敵の騎兵(遊撃部隊)と相対して戦局の安定を図る必要があるので、というのが主な理由なのでそれは先に記しておく。簡単にいうと、敵も騎兵を用いて遊撃を行ってくる可能性があるので、戦局を崩されないように騎兵(奇兵)を用いて敵の揺さぶりを絶ち、戦局を安定させるものである。もっとも、この前提にはまずひとつの戦場において敵味方の主軍と主軍同士はまともに交戦することが前提にあり、奇兵や遊撃部隊によって戦況に揺さぶりを掛けられる、あるいは覆される可能性がある場合に、騎兵や遊撃部隊を用いて戦局を安定させるものである、というのがある。戦略ゲームをやり慣れている人にはほぼ当たり前のことかもしれないが、騎兵(奇兵)こそやっかりなものであり、戦局を覆すのに有用なものである。分からない人のためには、先ほどの敵味方の主軍同士はほぼ正面切ってまともに向かい合って交戦する、というのが前提であるが、そうなると、というかその過程で騎兵(遊撃部隊)が有効になってくる、というものである。これはサッカーなどのスポーツにおいてもそうだが、足の速いウィンガーには同じ足周りのいいディフェンダーを充てるのと一緒で、騎兵(奇兵)には騎兵を、というのがセオリーなのである(なお奇兵としたのは騎兵は扱い方によってはとんでもない効果を持った部隊=奇兵に成り得る、という観点から)。奇抜な戦術がなかなかゲームにおいて成功しないのは単純に主となるゲームや戦いのセオリー(兵法など)があまりにも強大なためで、まずゲームにおいて(戦争や戦いも広く観ればゲーム)成功するには主要なセオリーなどの研究からさらにそこから枝分かれというか発展させる形でセオリーを研究というか見出していかなければならないのである。奇抜な戦術が成功しないのは主となるゲームのセオリーを知らないから、でもあり、武術の型から入る、守破難の教えでもそうなのだがまず主となるものを知らないと発展の戦術も作れないから、なのである。ちなみに、奇抜な発想やアイディアがどうのこうのと言っているわけではなく、それをいきなり実戦で試すのには果たして信用に足り得るか、どうか、という話をしているのである。なので勘違いしないでもらいたい。まったく奇抜な発想を否定しているわけではないのである(もちろん奇抜な戦術もちゃんと論理的なバックアップが付けば十分使えるものとなるであろう)。話を元に戻すが、騎兵(奇兵)には騎兵を、なのである。主軍同士の交戦を迂回してくるであろう騎兵(遊撃部隊)を騎兵で迎え撃つのは、至極当たり前のことのようにも思えるのだが、例えば近世ヨーロッパの戦いにおいて遊撃部隊の騎兵をパイクを含む陣形で迎え撃った場合、というのを考えてみよう。おそらくこちらも騎兵(奇兵)を含む遊撃部隊になると思うのだが、まったく騎兵だけの遊撃部隊というものに対してパイクなどの歩兵が混ざっていては当然動きが遅い(また当然これの前提として騎兵も適度の軽量化、機動化されている必要がある。でないと有意な速度差がでない)。となると当然味方が形成している戦線よりも若干気持ち(というか比較的)後方で相手の騎兵(遊撃部隊)と相対して交戦することになるのだが、よほど味方の本拠に近いわけでもない限り(つまり全く防衛戦の戦いでもない限り)戦線より後ろで交戦することはゲーム的に不利になる。なぜかというと味方は全体としてみると相手の攻撃を引いて「受ける」ことになり、相対して味方は不利になる。もっとも、武術や剣術においては引いて「受ける」ことは非常に重要な要素なのであるが(攻撃的な態度でないことを示すためにも、あるいは技術的な面でも全面的にそうだ)これが戦場というかゲームとなるとやっかいで味方が交戦し始めてからその戦線よりは若干後方で相手の攻撃を受けなければならないのはやはり不利になるのである。まぁ、簡単にいうと全体的に押されているから、なのであるがゲームにおいては小さいところでの不利はそれがファクター的に十分なら重大な影響というか全体の戦局に大きな不利を及ぼすのでやはりあまりおすすめできないというか、進んでそういう弊害は避けるべきなのである。逆に奇兵(騎兵)というか遊撃部隊といえどまともに敵の主力と交戦しても装備的に勝ち目はないわけで、そうなるとできるだけ主力との交戦は避けたほうがいい。そうなると奇兵(遊撃部隊)として同じく敵の奇兵(遊撃部隊)と相対して局地戦を展開したほうが、全体のゲームというか戦局としては好ましいのである。もちろん適当なところまで戦って適度に撤退するのは忘れてはならない。主要な仕事はあくまでも戦局が変わるまで適当に遊撃戦を続ける、ということなのである。


余談:タグに海戦と付けておいてなにも語らないのでは失礼になるので軽く書いておく。海戦において(特に近世のヨーロッパにおける帆船同士の戦いにおいては)奇兵(あるいは騎兵)とは単純に足の速い遊撃部隊のことである(ここでも遊撃部隊という定義は変わらない)。まぁ、おそらくカッターやスループ、中型の船だとコルベットやフリゲートになると思うが、まぁとにかく陸でも海においても遊撃部隊は重要なのである。理由は先の陸の部分で挙げた通り主軍同士の交戦とのバランスを取るためで、遊撃部隊に抜け駆けされては味方の陣形も崩れ全体の戦局のバランスを崩すのでできるだけそれは避けたほうがよい、ということなのである。なので、遊撃部隊は抜け駆けしろ、と書いたのであるがそれは同時に敵方も同じようなことを狙っているので敵方の遊撃部隊に抜け駆けさせないようにしなければならないのである。まぁ分かりやすくまとめると単純にある程度の適当な敵には適当な味方(相手)をあてがっておけ、というのがその精神になるのであるが、お分かりいただけただろうか。遊撃部隊には遊撃部隊を、ということであるが、主軍にしろなんにしろ適当なものには適当なものをあてがっておけ、というのが主旨になる。というわけだ。お読みいただき感謝している。
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掎角というものについて

今日は、掎角というものについて紹介したいと思います。
といっても、ネットの辞書に載っているような内容ではなく多少独自の内容になるかもしれないので
悪しからず。三国志を連想された方も多いと思いますが、そうです。まさにあの三国志の「掎角」なのです。

掎角とは、ネットで調べると鹿の角と足を両方ほにゃらら……前後呼応などなどと出てきますが、
基本的にここでは、「三角形の、三面のうち二面を取った形」を掎角と呼ぶことにします。角と足を取って
前後呼応する形も、三角形の二面を取るのも似たようなものに思われるでしょうが、そうです、だいたい同じです。三角形としたのは、単純に孫子などの兵法書に書いてある陣形などの考え方について図式化していくと
自ずと三角形が最小の形で最大効率化されている(どんな図形も分解すると直線を除いては三角形が最小になる)ことからです。簡単にまとめると、三角形の内の二面を取る状態ということは陸の陣形に例えるなら側面攻撃を仕掛けることで、この形を作られると到底太刀打ちできないほど不利な状態になる、ということです。反対に、三角形に例えましたがとにかく敵の正面に対してそのうちの二面を取る策を取れば、俄然有利になる、というかゲーム理論的にも有利になるわけです。ゲーム理論的に、というのは、数学の戦術や戦略について分析・解析したゲーム理論においても有利になる、ということで、三角形のうち二面という形で証明してしまいましたから数学的にもほとんどある程度のところまでは正しいはず、です。まぁそれはおいておいて三角形のうち、二面を取る、という考え方が陣形においてはもっとも効率的な直接戦闘法、というわけです。また、これは情報空間の戦いにおいてもそうで、情報空間の戦いといえど実際の組打ち方は物理空間のそれや剣術や武術の動きやセオリーに準じますから、だいたいの基本法則は似通ってきます。なので、情報空間においても三面のうち二面を取る戦術は有効で、これをゲーム理論的に表すなら「三面のうち、二面を取ってしまえば相手の残り戦術的に選べる面は、一つかもしくはそこから展開するしかなくなる、から」となるのです。ちなみに、数式で表すとすると 3x+1=2、となります。xはおそらく0.3でしょうね。0.3、三分の一の比率というと円周率も連想しますが、この辺ももう少し調べていけば何らかの関連性があるかもしれませんね。というわけで、話を元に戻します。

ゲーム理論的には、三面のうち二面を取る戦術を取れば、俄然有利になる、と書きましたがこれは別に孫子の兵法書など読まなくても分かるはずです(といって筆者は孫子の兵法書を電子書籍で持ってます)。図形を直線以外で最小図式化、最大効率化すると三角形に至りますから、その最小モデルである三角形のうち二面を取れば有利になる、ということはお分かりいただけたと思います。理屈としては、先に述べた通り「三角形のうち、二面を取ってしまえば敵は残りの一面あるいはそこから展開するしかなくなるから」、というのが答えです。つまり、戦いというか、ゲームにおいては常に相手の二面を取る戦術を取ればいいわけで、(しかもこれは掎角の語源通り角と足の両面を取れ、というよりも隣り合う二面を取れ、という示唆のほうが大きいのです。そちらのほうが、ゲーム理論的には有利、ということになります。)常に一つの部署で二つの相手に相対することになれば、当然その部分というか部位は疲弊しますから、ゲーム理論的にも戦局的にも、不利になります。不利になる、ということは勝ちを逃す、というか大局で負ける公算が高くなる、ということです。ついでに、といってはなんですがこれは帆船の艦隊戦においてもそうで、帆船は常に相手に砲舷側のある船側面を敵に向けて攻撃しますから、一方で横向きに相対してあればもう一方はガラ空きになるわけです。帆船は船首と船尾の装甲が弱くそこが弱点になるわけですから、ここでいう「掎角」をとっただけで相手は危機的状況というか致命的に不利になるのです。まぁ帆船で例えたので大方の読者には分かってもらえたと思えますが、だいたいここでいう「掎角」、とはこういうものなのです。結論としては、三角形の三面のうち二面を取れば、有利になる、ということですが、いかがだったでしょうか。また、これはゲーム理論を展開していく上である意味重要なファクターになるかと思います。三面のうち二面を取る戦術、セオリーで大抵他のゲーム理論的展開や戦術的セオリーが理解できてしまうので、ゲーム展開的に三面のうち二面を取る、というのは基本中の基本でかなり重要なものだ、ということがいえるわけです。つまりゲーム理論中では、どんなことにも当てはまる基本的な概念だ、ということなのです。また、この三面のうち二面を取る戦術にも、欠点というかカバーしきれない面もあります。

例えば、それは相手が四方八方から攻めてきた場合です。四方八方の面を取られてしまっては、折角の三角形の三面のうち、二面を取る戦術も役に立ちません。なんせ、四方八方となっては三角形が二個〜四個入ってしまいますから、数学的にも不利になるのです。そのうち、二面を取っていたって、仕方ありませんからね。確かに、各個呼応して三角形のうち、二面をたくさん作ればいいじゃないか、というのも聞こえてきそうですが、そもそも四方、四角形のうち二面を取っても互角、八方、八角形のうち二面を取ったところで相手のほうが倍有利になるわけですから、そうなると相手がどだい有利になるわけです。二面をたくさん作る方策でも、確かにそれはセオリーでもあるわけですが、一個二個作っていくうちに戦術的コストがかかるわけですから、その間にやはり不利になってしまうわけです。戦術的コストがかかる、ということはゲーム理論においては負けを意味します。物理空間ものは(そうでなくても物理的なものは)常にコストを消費していますから、戦いにおいてそれが増えるのは負けを意味するのです。戦いやゲームというものはすべてにおいてコストを消費するものですから、いちいち細かいところの個々でコストを消耗していては、全体として負けにつながる、のです。ゲーム的には全体で負けたら意味がない、というか大局での勝ち負けをゲームの基準にしますから、大局で負けないためには個々の細かいコストの消耗を抑えるのは、ひとつの戦術になるわけです。まぁ、でもいちいちコストを抑えることに躍起になってみても、最初はそうなかなか思う通りに進みませんから、基本的にはゲーム的に、大局で勝つことを基準というか目標にすればいいわけです。もちろん、これはゲーム的に、というだけの話であって実際の世の中は勝ち負けだけではありませんから細かく気にすることはないのです。勝ち負け以外にも価値のあることはいっぱいあります。というか、勝ち負けなんて小局的にはほとんど価値はないのです。ただ、ゲーム的に有利になる、ということは自分が有利になる、ということですからやはりゲーム理論的には、という話をしたときには押さえておきたいところです。なので、長くなりましたが一個二個、二面を作っていく度に相対的不利になっていくわけですから、四方八面を取られたときは、三角形の三面のうち二面を取る戦術は、あてにならないのです。それでも戦いの全体のゲームとしては各個で局面を打開というか少なくとも対応することが求められますから、やはり三角形の三面のうち二面を取る戦術は、有意というかそこでも有効なのです。小さいところで有利なら、大きいところで有利に、大きいところで有利なら、小さいところで有利に、というのがゲーム理論の基本法則ですから、併せて覚えておくとよいでしょう。(ちなみに、小さいところで不利だとしても、その関連性が大きなところで証明できなければほとんど影響はありませんから、必ずしもすべてフラクタル、というわけではないのです。ただ、あくまでも全てが似通うのはゲーム理論的特徴でもありますから、合せて覚えておくとよいでしょう。)というわけです。以上、掎角について、でした。また、ご質問・ご感想等あればどしどし遠慮なくお寄せください。できる限り、お答えします〜。長い間でしたがお付き合いありがとうでした〜。お読みいただき感謝です。それでは、また。続きを読む
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2015年05月22日

お知らせ

管理人サブページでは海戦シミュレーションや海戦の戦術、ゲーム理論的推察を公開していますので
まだの方は是非。海戦のゲームそのものに言及した形になっています。リンクはプロフィールのサブページのところから。
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2015年05月21日

サケのアンチョビバター焼き-料理の紹介

まぁ、歴史とか文化とか題材にしていますが今日は料理のご紹介。
えっ、なんで?って思われたかもしれませんが文化遺産、いや古代遺跡に匹敵するんじゃないか、
ぐらいの料理を“発見”したので今日はそれを報告しておきたいと思います。

古代遺跡は言い過ぎかと思いますがそれくらいの大発見なので。ともあれきっかけは
ネット版NYtimesの料理動画でした。メリッサ・クラークという人が料理を紹介している
一週間か二週間に一回アップされる動画なのですが、ちょっと前にそれで仕入れた
「サケのアンチョビバター」という料理がとてもおいしかったのでそれを紹介しておきます。

一度はタラで、二度目はカラスガレイで失敗、三度目は(三度目の正直で)サケで実行しまして
またこれがおいしいのです。白身であればどれを使っても基本は変わりませんが本当のところを押さえておきたいという方はNYtimesのページにアクセスして実際に動画を探されることをおすすめします。(ページ中の下段ほど、動画埋め込み リストから:英語)サケでなくてもいいのですが(実際一度目と二度目はサケが揃いませんでしたので)サケがやはり本家本元のレシピとだけあってやはりおいしいです。どちらかというとサケの場合は旨みと味のバランスが取れている感じですがタラやカラスガレイを使った場合はどちらかというと旨みのほうが味に勝つ感じです。でも味は元の魚が薄いのでアンチョビバターの風味が特にアンチョビをちょっと入れ過ぎた場合だと少ししょっぱいぐらいでちょうどおいしいのです。三度目でサケを使ってようやく分かりましたがこのレシピの要点は旨みと味のバランスです。下に軽くレシピを書いておきます。本物が見たいという方はNYtimesのページへ行って動画を探してみてください。では、簡単にまとめておきます。

サケ、もしくは白身魚に塩・コショウ(黒胡椒推奨)をする。
アンチョビのペースト、もしくはフィレを潰したやつをバター(2〜3人前で10〜15g)と混ぜる。バターが堅いという場合はレンジで500W20秒ほどチンして柔らかくするとよい。
フライパンに少量のオリーブオイルを敷く。
さきほどのアンチョビバターを少量フライパンに落とす。焦げないように素早く溶かしてフライパン全体になじませる。

オイルと良く馴染んだら魚を投入。皮側から焼くと良い。カラスガレイなどの崩れやすい白身魚の場合はあらかじめ小麦粉か片栗粉を付けておくとよい。これをやらずにカレイがボロボロになった。

魚の焼き方はまぁ通常通りだが皮面がパリッとなったら裏返す。ここで少量アンチョビバターを追加。フライパンに落として溶けたらスプーン(金属の)で魚にちょいちょいとかける。こうすると旨みが移る。
ジャガイモ、ニンジンなどの野菜を投入する場合はここで。量に応じてアンチョビバターを追加するとよい。もちろんフライパンで溶けたやつをなじませること。全体がこんがり焼けたら完成。野菜類はくれぐれも予め蒸かすなどの火を通す行為をしておくこと。生のジャガイモ、ニンジンなど入れぬように。ちなみに、ブロッコリーは茹でたもの、きのこ類は火を通すのであればそのまま入れてもよい。ジャガイモの適度に崩れた粉と、アンチョビバターが馴染むとなおさらおいしい。野菜類は適度に焦げ目が付くのが理想。このとき野菜類にも適度に塩コショウをしておくとよい。
アンチョビバターは焼き終わるまでに使い切ってしまうこと。具材やフライパンに残ったものはまとめてパンに付けてもおいしい。

以上です。少々分かりにくいかと思いますが手順よりも味のおいしさを伝えたほうがいいと思ってこういう風に書きました。若干中世風のレシピになったかな?
このレシピに関して、ご感想・質問等あればぜひいただけるとうれしい。またこれから発展した料理、改良作なども作ってみた、食べてみたという方は是非是非コメントしていただけると幅が広がっていいと思います。本来ならばレストランとかで食べてみるのが一番いいかと思うのですが、このレシピのいいところはレストランの味が簡単に家庭で作れてしまうところでNYtimesのメリッサ・クラークさんには感謝ですね〜。みなさんも、是非お試しあれ〜。
posted by skywalker at 20:58| 愛知 ☀| Comment(0) | 雑記・雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

剣術は哲学

まず結論からですが、剣術は哲学です。
剣術といいましたがこれは古今西洋、東洋問わず武術、いわゆるマーシャルアーツと
呼ばれるものに関しては、大抵、ほとんどのものがそうです。基本的には一対一で、一瞬で勝負が決して
しまうため哲学なのです。ゲーム理論的な裏付けは、後で説明します。要は、武術・剣術は哲学なのです。

仏教でもそうですが、哲学は己の心の中、精神面を観るものでもあります。西洋的な哲学というと多少構造的なものがあったり数理的なものも入るのかもしれませんが基本的には、古今東西哲学というときは基本的には己の心の中、精神面を観る作業である、ということは共通していえると思います。

話がちょっと逸れてしまいましたが元に戻します。このブログの前の稿でも書いたと思いますが、剣術・武術は至極哲学的なものなのです。ゲーム理論的にいうと、ゼロサムゲームといいますが剣術・武術は大抵一瞬で決着が付きます。それは斬られたら終わりというのもあるしそうなると余計な手はかけず一瞬で決着を付けてしまうほうが都合がいいからです。一瞬でないと、あれこれ考えてバランスを崩してしまい、結局は相手に付け入る隙を与えてしまいます。武術としては一瞬で決着がつかないのは都合が悪い(数学的にも)ですから、基本的に武術・剣術というものは一瞬で決着が付くものなのです。

このように一瞬で決着がついてしまうことを鑑みると(斬られたら終わりでそれについては考えるのは意味がないことから)武術・剣術で基本となるところは概ね世界観というか、精神論の部分です。人間には情報空間というものがありますが、物理的には一瞬で決着が付きやすいものなので、基本的にそれ以外の部分(相手を一瞬で倒す技などではなく)の世界観や精神論の部分が武術家というか武士・騎士には必要なのです。精神論としては西洋・東洋通じて割と多数の文献が出ていると思いますが、武術や剣術を扱う以上武術家としてはメンタリティーは一緒なのです。東洋はそうですが、西洋の武術書などにも精神論の部分の解説はちゃんとあります。一瞬で決着が付くものですから、世界観や精神論が重要になってくるのはどこも一緒なのです。

まぁ、ここで述べたいのは剣術は哲学である、ということですから具体的にその中身がどうだ、というのはおいておきますが(武術家の数、いや星の数ほど精神論や哲学はあります)、メンタリティーが重要なのはどこにいっても同じなのです。人間の情報空間は物理世界をも支配していますから、メンタリティー、気持ちの持ち方ひとつで勝負はあっという間に変わってしまうのです。そうなると、考えても無駄、無意識で、ということになると思いますが無意識の考えを起こすにもそれを取り巻く精神論や哲学は必須なのです。理論や論理でバックアップしないと、人間は情報の空間にリアリティを持てませんから、やはり哲学や精神論は重要になってくるのです。そういう意味で剣術は哲学でもあるし物理的な身体操法でもあるのです。(詳しくは苫米地英人氏のサイトをご覧ください、参考になると思います。)

ついで、の話ですがSF映画スターウォーズでも武術・剣術は哲学というのは一緒です。というか、スターウォーズに出てくるフォースの概念は、もろに剣術・武術が哲学である、というのが如実に表れています。
まぁ、大まかに言ってしまうと精神論だ、という話なのですが基本的に情報空間の世界ではその世界観のスケールや大きさが大きいものであるほど強いのです。情報空間というだけあって物理的な制約はほとんど受けませんから、瞑想・哲学の世界では人間は誰だって強くなれるのです。情報空間は物理空間の上に乗っかっているので情報空間で強くなれば追々それが物理空間に反映されていくのは説明するまでもないことです。

精神論や哲学が剣術・武術を支配していると書きましたが説明を元に戻すなら実際にやると一瞬で決着がついてしまうので要はそれ以外の、精神論や世界観、哲学の部分が重要になってくる、という話なのです。精神論や世界観ひっくるめて哲学ですから、剣術や武術、いやそれだけではなくてもっと大きな世界や宇宙について考えること・姿勢こそ剣術・武術の極みなのではないでしょうか。剣術家・武術家といえども元は一人の人間なのです。一瞬で決着がついてしまうからこそ、哲学・世界観、精神論などが重要になってきます。仏教の概念でいうと、三千一念ともいいますが、一瞬で決着がついてしまう、決まってしまうのは何も武術・剣術に限った話ではなく、日常の生活、私たちの世界でも一緒なのです。すべてが一瞬で決まっています。あなたの世界でもそうです。すべてが一瞬で決まっている世界なのです。無や虚無ではなく、一瞬、空なのです。
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2015年05月14日

交易と経済論 〜付加価値の循環〜

交易や経済についてサブブログ含めずいぶん書いてきましたが
今日は付加価値と交易の経済論について、です。

まず、始めに要点というか結論を述べておきますと
交易とは付加価値の流れが起きている状態である、ということです。
中世〜近世の特に地中海交易の例で例えますと、まず交易とは基本的に
余ったものを運んで売り買いして他のノード(拠点港)もしくは都市から
財・貨幣の流れを受け取るものである、ということを確認しておきたいと思います。
また、副次的には他の街などの高級品や日用物資などの交易品もその街が受け取る
財というか資産に当たる、ということも併せて押さえておきましょう。

特に、先ほどの地中海の例ですとマルセイユ・バルセロナ・ジェノヴァ・ナポリ・ヴェネツィア・チュニス・
アテネ・ベイルート・アレクサンドリア・イスタンブールなどが大きなトレードノード(貿易拠点港)として有名ですね。ここで挙げたような街はある特徴があります。その特徴とは扱っている商品・交易品の付加価値が総じて高い、ということです。これは地中海の例でいくとローマ時代以前からあるマルセイユ・バルセロナ・ナポリなどの都市で特に顕著なのですが、歴史のある貿易都市ほど扱っている交易品の付加価値が高くなる傾向があるのです。理由は歴史のある貿易都市は古くから交易していますからそれだけ財というか資産を貯めこんでいます。それだけ資産があると産業や生産にも投資しやすくなるため、結果として大まかではありますが付加価値の高い交易品が作れるようになるのです。ここでいう付加価値とは単純にいうと500円で作ったものが600円で交易所の店頭に並び運ばれた先で900円の値段で買い取られ……という流れにおいて(ここではあくまで円ですが)生産元ではコストは除いてまず500で作ったとします。次に交易所に買い取られる段階で600円ですから100円の付加価値が発生していることになります。さらに船賃は置いておくとして船で運ばれ運ばれた先で900円で買い取られるわけですからさらに300円の付加価値が発生しているわけです。合せて400円の付加価値が発生しているわけですがこれは市場そのものに400円の新たな価値が生み出されていることになります。資本主義ではそのように生み出される価値を工場と投資によってさらに効率化しようというものが資本主義というものです。このように生産・交易の段階で新たに価値が生まれること、または生まれたものそのものを付加価値と呼びます。詳しくは苫米地英人氏の経済本各書が詳しいと思います。

このように付加価値が生まれるのが生産・交易・流通というものなのですが、この稿の主張に戻りますと歴史のある貿易都市では付加価値の高い(相対的に価値の高い)交易品が扱われていることが多い、ということです。交易の流れでいくと豊かなところからそうでないところにモノや資財(商品)が流れるのが交易ですから当然小さい港に対してモノが流れます。また、貿易流通網(ノード)の下流へ下流へとモノが流れていくことになります。大抵の場合はモノや商品の代価として貨幣や高級品、貴金属で支払いが行われますから相対的に交易路(ノード)の上流の街に対して資財が流れることになります。また、もし交易の上流の街で価値があるとみなされるものであれば貨幣の代わりに支払いの材料になることもあり得るわけです。そのように貿易決済の代わりになるようなものでも付加価値があるもの、という言い方ができるわけです。地中海の例えでいくとヨーロッパとイスラム圏ではそのように互いに交易が行われていたため交易の相手側により利益があるように相手にとって付加価値の高いものを流していました。ジェノヴァで普通に売っているものがベイルートでは高値で買い取られていったり、といったことがその例です。そういうふうに他の街では高値で買い取られるものを船などで運んで利益を得る行為を交易といいますしそうして発生した利益などを含め付加価値と呼びます。

つまり、古くからある貿易都市では総じて付加価値の高いものが生産、取り扱われていることが多い、といえるのですがそこからいくと交易では付加価値(の高いモノ)が交易路(トレードノード)のより上流から下流へと流れていく現象が起きます。交易路を流れるということはそれだけ利益=付加価値を生みますから交易とは付加価値を流す行為、より上流から下流へと流す;やりとりする行為である、ということがいえると思います。交易では運ばれてきた交易品・商品に対して貨幣または交易品、物品で代価の支払いが行われますから当然運んだ元にも資財が流れてくるわけです。まぁ、これは東インド会社の例でいくと会社独占形態などの一部のノード(拠点港)に資財・商品を集めるやり方を除いては、の話ですが(実際香料諸島などに銀や綿織物などで香辛料の支払いが為されていましたがちゃんと正当な代価だったのかは疑問)とにかく交易とは基本的には商品・交易品と代価またはそれに対する交易品のやりとりである、ということをまず確認しておきたいと思います。そういう行為であるとすると、発生した付加価値に対して資財が流れ込んで来るので交易路の上流・下流のどちらでもそういった資財を生産や産業などに投資してさらに付加価値の高いもの、よりコストの安いものを作ることができるようになる、ということが言えると思います。ちなみに、古くからある大きな貿易都市では当然より取引の歴史がありますからそういった資財も多いのではないか、ということがいえると思います。実際、そういった都市では大きな歴史的建造物や文化的遺産がたくさんあることが多いですからそれが流れてきた、というか集まってきた資財の象徴でもある、ということがいえます。より交易路の下流の、小さな都市・街にも代わりとなる交易品を運んでいればちゃんと資財の流通がありますから問題ないのですが、とにかく、交易とはそういった資財の流れ、付加価値の流れ;やりとりである、ということがいえるのがお分かりいただけたのではないか、と思います。要点としては、付加価値はより高きから低きへと流れる、ということになると思います。ちゃんとした流通網を持っていれば、より高い付加価値の商品をできるだけ多く作ったものがより資財を集められる、ということなのです。まぁ生産や産業というものも原材料というかコストがかかるものですから、できるだけ高い付加価値の商品を造ったほうが儲けられるし、コストも安くあがる、ということがいえると思います。価値の高いものを生み出せば資産が集められるのですから、割と簡単ですよね?とにかく、自分にとって価値の高いものを生み出していけばいいわけです。比較しても限度がありますから、自分にとって付加価値が高いものであればいいわけです。そういって生み出されたものが、市場に流通し、より高い付加価値を生み出していくわけです。よりいいものを生み出せば市場に付加価値が発生し、その流れの結果として資財・資産を受け取ることができるのですから仕組みとしては簡単ですよね?作る・作らない以前の問題の前に市場の大きな流れをしっておく、というものがあるのです。
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2015年05月07日

一対一のゲームとゲームの構造―どちらが強いのか?

―この文章は別サイトのブログで書いたものです。そこから転載。
一部分かりにくところがあるかもしれませんが、前稿、という表現で書いたのは
「人々はなぜRPGをやりたがるか?―RPGとゲームの構造」という同元サイトの
ブログ記事です。同管理人のブログで転載しておくのでリンクを貼っておきます。
よければお読みください。(なお別サイトの元ブログは右上のアバター絵から)
http://lemtemhoster.seesaa.net/

―先ほどは、というか前稿ではだいぶ派手にゲームのことについて
書かせてもらったが、本稿ではゲームの構造、特に一対一(のゲーム)について
解説する。雑な説明ではあるが最後まで聞いてもらいらい。

前稿でも述べた通りだがゲームはつまるところ一対一に集束するものである。これはゲームの数理的にもそうだし、フォースというか全体の力の流れの構造においてもそうだ。数理的にもフォースの流れ的にもそうなら当然抽象的というか情報空間についても同じことがいえる、というのが成り立つ。つまり、仏教の一念三千にも例えがあるが特にフォース、力の流れ的にほぼ全体が一点、というかその場に集まるのだ。これは特にその人自身の宇宙のフォースがその場に集まるという意味でも顕著である。分かりやすくいうと、その場つまりそのゲームの場にほぼすべてが集約されるのである。宇宙のフォースというのは全体の力の流れ、特にその場に集まるときの力の量、という場合において特にそうである。つまり、要はいいたいのはその場にほぼすべてが集まる、ということだけなのだ。

ゲームがほぼその場にすべてが集まる場、というのは説明したと思うがゲーム的に力が一点に集まるというのは要は一対一なのである。ゲームは究めるとほぼすべてが一対一になるというのは先に述べておかなければならないが、構造的にゲームは一対一が基本なのである。つまり一対一で勝てばゲームはなんだって勝てる、つまりどんな場合でも上手くいくのだ。例えばサッカーなんかでもそうだが、一対一に負けてしまうようでは全体的に圧倒的な勝ちは収められない。圧倒的、というのはゲーム的に完全に、という意味で、である。もちろんポゼッションだけの話ではない。特に帆船の艦隊戦で例えると、例えば力量的に一隻同士で比べると負けているのに、だいたい同じ力量というか物量同士の他国の艦隊とでやりあってみても、そう大して圧倒的な勝ちは収められない。ここで圧倒的にというのはゲーム的にどうか、ということであるが、実際にこれをやるとなると、というと要は味方にも死傷者が出るのである。これはどの戦争でも分かりきっていることであるが、この点に気付いているのかどうかは知らないが、今になっても戦争がやめにならないのは一つ注意書きしておく。これについては簡単にいうと、単なる戦争のバイアス以上、それ以上の力がかかっているのだ。だから戦争はタダではやめにならない。民主的に戦争をするわけではないのでやはりそれ以上の何かしらのバイアスで、というかゲーム的に動くことが、必要なのである。戦争をやめにするには、そういったバイアスが必要なのである。話を元に戻そう。

帆船の艦隊戦の話だったが、要は艦隊戦のゲームにしてもだいたい同じ物量同士の艦隊でそのうちの一隻同士を比較していてもそれで負けてしまえば、大して勝ちは収められない、というか到底有利にも戦えない。有利でない、ということは実戦ではすなわち死を意味する。訓練で補てんすることも考えられるが、それにも時間的物量的コストも相当かかることなどからやはり帆船の艦隊戦にしてもその時に勝てるかどうかは、その時と場の運、つまりゲームの組み合わせにすべてかかっているといえよう。どだいどれだけ力量と物量がある艦隊・船でもその時のゲームの組み合わせで勝てなかったら、負けてしまえば到底勝ちはないのだ、というよりか負けるしかないのだ。繰り返しになるが実戦で負ける、ということはすなわち死を意味する。つまるところ、どれだけ準備していようとゲームの組み合わせさえ悪ければ、どんなに物量・力量があっても負けてしまうので戦争などは所詮意味がない、のだが(というかそんなことは実際に試さないに限る)ゲーム的に情報空間でやるならまた別である。ちゃんとゲーム形式でやるなら情報的にはそれだけ得るものがあるからだ。それだけに情報空間でゲームというかそれができる、実際にそれがシミュレーションできるゲームというのは、貴重なのだ。なにしろ物理的にコストをほとんど払うことなくそれができるのだから、かなり貴重だと言わざるを得ない。もちろん日本ではまだまだそういった考えというか、概念では遅れているので是非ゲームクリエイター諸氏にはがんばってもらいたい。ゲーム、特にシミュレーションゲームには社会的にそれだけ需要があるのだ。是非リアルなゲームを作ってもらいたい。

まとめると、本稿の話はゲームは一対一に集束する、というものなのだがお分かりいただけただろうか?剣術などが一番分かりやすいがその場にすべてが集約されるのでその場で、一対一で負けてしまえばもう後はないのである。そういってしまえばちょっと簡単すぎるかもしれないが、ゲームでも負けてしまえば後がない、というかゲーム形式ではそれで終わりなのでそれはゲームでは至極当たり前のことなのである。まぁ、それほどにも歯切れがいいからゲームというのは単純で分かりやすいのであるのだがこれは分かりやすい話で単純であるほどゲーム形式だとおもしろくてやめられない、のである。また、一回一回ちゃんと結果は出るので分かりやすい。仏教の概念でいうと一念三千だがその場、その時にほぼすべてが集まるのである。そう考えると人生はなんと楽しいものではないだろうか。一瞬一瞬ですべてが決まるのならその後の人生それほど生きやすいものはない、というのが本心であろう。まさに人間の冥利に尽きる、というものである。という具合にゲームというのは全体像というか世界を説明するにはこれ以上ない、というぐらいに便利なものなのである。もしゲーム、ゲーム理論について興味があるのならば「ゲーム理論」で本を検索してみるといいだろう。そこらへんにいい本がいっぱい転がっているので手当たり次第に読んでみれば、きっとそのうちに理解が深まることであろうと思う。というわけで、本稿は終わりにしておきたい。ご精読いただいた読者諸氏には大変感謝しておきたい。
posted by skywalker at 12:24| 愛知 ☁| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

サブサイト作りました。

控え室、待合室云々……
http://lemtemhoster.seesaa.net/

当ブログ「文明と歴史の交差するところ」のサブサイト、
及び雑談・交流場所、です〜。まぁここは小難しいことが
書いてあるので、もっと気軽に話したい、適当に交流したい
という人向けのサイトですね〜。フォーラムも取り入れたりして、
交流しやすい場所を目指していきたいと思っています〜。

こちらのブログよりも、私的なサイトとなる予定ですが、
こちらではいいにくいこと、意見交換や意思発信、議論の場として
活用していただければ、と思います〜。まだフォーラムはできていませんが、
順次工事予定なので時々気軽に足を運んでいただければ、と思います〜。

向こうとこっちで、適当に行き来できるだけのエントリーは作っておきますので、
よかったら足を運んでみてね。それでは〜。

posted by skywalker at 18:46| 愛知 ☀| Comment(0) | リンク・サイト紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする