2015年04月14日

メタゲームとゲーム的推論

メタゲームとゲーム的推論ということですが、メタゲームとゲーム的推論、まずこの大きく分けて二つのうちゲーム的推論について説明したいと思います。ゲーム的推論というのはいわゆるゲーム理論的な推論の仕方、思考のことであり、駆け引きやその駆け引きの構造について思考を巡らすこと、特に全体の仕組みを駆け引きなどの観点から見た場合の推論のことを指します。推論といっても、自分の中での思考のことですので(少なからず科学においてはどれもそうだが)数式明文化して、どうのこうのというよりも思考的な推論のほうを指します。この稿での主旨はゲーム的推論を重ねれば、複雑性の階段を突破して宇宙が見える、というものです。分からない人には大げさに見えるかもしれませんが、複雑性の数理ではよくある話でその手の本では人工知能が感情を獲得する際に複雑性の階段を駆け上がるという表現がされています。人工知能の話では感情という高度に抽象化された機能を手に入れるには数理でいう複雑性の階段を突破する必要があるのですが、ゲーム理論にもゲームの成り立ちというかものが展開していく様を数式的に抽象化したものはあります。(変数に素数が順番に足されていく感じの数理です)それはどうでもいいことなのですが、要するにゲーム的推論を重ねれば複雑性の階段を突破して宇宙が見える、ということです。分かりやすくいうと、悟るというか悟りの世界がみえる、ということです。感情を獲得する際にもそうですが悟る過程でも複雑性を突破しているともいえるのです。宇宙のインフレーション理論を持ち出すのなら1(か0)から宇宙ができたように段々と宇宙が広がっていくことにミソがあります。要は宇宙が広がっていくのならだんだんと数理的にも世界が広がっていくことにミソがあるのです。つまり、だんだんと数理が増えていく感じなのです。変数に素数が順番に足されていく感じの数式はどこかで見たことがある人も多いのではないかと思います。論理的には、だんだんと増えていくのが今のところの宇宙なのです。〈結論:ゲーム的推論を重ねると宇宙が見える〉

一方、メタゲームのほうの話ですが、これはなんなのかというと、(まずメタゲームから説明しましょうかね、)メタゲームとはいわゆる超越次元というか、超越した(メタ)次元・抽象度、次の段階のゲーム、そこに存在するゲームということになります。つまり、資本主義でいうと(資本主義もひとつのゲームですが)働いたり生産したり交易したりしてお金を稼ぐのが低いレベルのゲームですが、生産設備を持ったり工場を持ったりして投資でお金を出してそれで上がってきた金を儲けるという(いわゆる資本家ですね)行為といかゲームが、いわゆるお金を稼ぐ上でのメタゲームになると思います。つまり、実際にはお金を稼ぐという行為をしていなくても投資であらかじめお金を投下することで利益というか利ざやを得られるのです。お金を稼ぐというゲームは放棄していながらも投資によってお金を投資してそれで利益が得られるのでメタゲーム的行為というかメタゲームなのです。なのでここでの定義では低いレベルのゲームは放棄していても高いレベルのゲームをしていればゲームでは有利になる行為をメタゲームというのです。他のゲームを包摂しうる、または一般の他のゲームよりも高いレベルのゲームのことをメタゲームというのです。言い換えるとゲーム外ゲームということもいえますが、そもそも21世紀のレベルで低いレベルのゲームをやっていること(特に真面目にそれをやっている場合)はどうしても時代遅れといわざるを得ないので、(つまり情報的にも物理空間的にもより高いレベルの作業・行為が求められる時代なのです。)メタゲームというのはある意味一般的になりつつあります。まぁ人間のもとからある行為に科学的に名前を付けただけなのでほとんどの事柄はこれと同様に簡単な解釈ができます。メタゲームというものは超越的に解釈できる上にゲーム的にも低いレベルのゲームに勝っている状態なので、相当破壊力があるわけです。といっても、もちろん物理的に物理空間のものを破壊してしまうわけではなく単純に情報的な強さを表しただけなので、大丈夫です。メタゲームの世界にいればなんでも分かってしまう、というレベルの破壊力なのですがある意味その世界にいるのは常識のようになってきている気がします。どうやるのか、というと単純に悟って、宇宙を見ている状態を作り出せばいいのでさっきいったゲーム的推論を重ねて複雑性の階段を突破することをすればいいのです。これだけ書くと分かりにくいかもしれませんが、単純に悟ればいいだけなので、そこまでは難しくないと思います。ちなみに、メタゲームの世界にいるとなんでも分かってしまうと書きましたが正しくはそれくらい俯瞰できて知能を発揮できる状態、としたかっただけで別に神にはなれないのです。推論を重ねると複雑性の階段を突破して宇宙が見える、と書きましたがゲームというのはそれほど威力があるのです。かといって、低いレベルのゲームを突破することはそれほど難しいことではないですから日頃からゲームを突破できるように精進してもらいたいものです。ちなみに、最終的にはゲームを放棄するのが答え、というか複雑性の階段を突破する鍵ですから今すぐゲームをやめれる人はやめたほうがいいのです。かといって、いきなりゲームをやめるのは難しいのでよりレベルの高いメタゲームをやればとりあえずはゲームとはおさらばできるわけです。実際に駆け引きをしなくてもいいですし、負けたからといって物理的損害を被ることはありません。簡単にいうと、要は悟ればいいわけですがその世界を上手く表現するのに便利な言葉が、メタゲームというもの、というわけなのです。簡単にいうと、メタゲームにいけば悟れる、というわけです。〈結論:メタゲームにいけば、悟れる〉

ゲーム的推論とメタゲーム、二つの事柄について書いてきましたが結論がふたつありますね、よく見ると順番になっているのですがお分かりいただけたでしょうか?実際、メタゲームというのは物理的には高次元で働いているゲームのことをいうのですが、普通のゲームをやるよりは楽なのでいいのです。社会でも、メタゲームというのは非常にアグレッシブでより機能的な働きをしているので、それを見つけるのもぜひやってみることをおすすめします。
posted by skywalker at 12:42| 愛知 ☔| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

交易と経済論

交易と経済論ということですが、今日は経済論について。
経済論といっても、何のことだか分からない人のために軽く提起しておきます。
経済論、特にここでいうそれは、経済学の論理のことを指します。まぁ、定義といっても差し支えないかもしれませんが、
軽くどんなものかどんな用語か触れておきたいだけなので提起にしました。ちなみに、交易は取引や運搬・売買を伴う特に商業的な
経済活動のことを指します。モノを運んで、どこかへ持って行って、売るという一連の流れの行為のことについて、ですね。経済学は、
交易に例えられるような特に商業、経済活動について、「論理・数理モデルで」解釈する学問です。
ちなみに、「21世紀の資本」という本が売り出されている、ようですがあれは苫米地英人氏の著書から引用するなら、数理・論理で築き上げてきた経済学を台無しにしてしまった(歴史学=要は個人解釈の入るあいまいな学問の方法で解釈してしまった)本らしいので読む方はぜひ「21世紀の資本の問題点」/苫米地英人著 を同時にお読みください。大げさなことをいうと「21世紀の資本」を読まなくても大体は内容と問題点は見えてしまう本なので、ぜひおすすめしておきます。「読まずに理解できるのか」という人もいるでしょうが数百ページに及ぶ本を読んで内容が「ごく当たり前の内容」だったらどうしますか、という話で直接読むよりは解説本を読んだ方が早い、というわけです。もちろんいろんな視点から、というのもあるでしょうが巷にあるようなただ賞賛してるだけの解説本を読むよりはよっぽどメリットが大きいと思います。興味のある方はぜひ読まれることをおすすめします。

さて、話を戻しましょうか。経済学を論理・数理モデルで証明・解釈する学問と書きましたがここではその「経済論の重要性」についてなので
特に数理は使いません。余談ですと論理も数理モデルのひとつなのですが難しい話を挟んでもややこやしくなるだけなので基本的にこういうところでは省きます。ただ読んで理解できるだけの稿を目指しているので難しいことはしません。文章で読んでも結構難しいと思うので基本的には読んで簡単に理解できるのを目指しています。もちろん複雑なことをいっているので多少読みにくいかもしれませんが。

要諦、というか結論からいっておくと、こうです。交易(など経済活動)の証明・解釈には経済論が必要。どうです?当たり前でしょう?(笑)確かに、交易の証明・解釈には経済論が必要、というと当たり前の文面に見えるかもしれませんが、要するに交易、特に16〜18,19世紀の近世貿易を理解するにはアダム・スミスの「国富論」があれば十分、ということです。もちろん、理解の助けというか完全に理解するには他の諸書も読み込まなければなりませんが、英語で完全に理解できるならアダム・スミスの「国富論」で近世貿易については「経済学的に」完全に理解できます。ただ、英語の原書を読まなければいけないので(もちろん紙の本は分厚くて大変ですが)、電子書籍をおすすめしています。(AmazonのKindleなら300〜500円程度と安いですしなにより読みやすいのでおすすめです。Kindleでは苫米地氏の英語学習本も出ているのでそちらも併せておすすめしておきます)
国富論自体16〜18,19世紀までの経済活動というか経済論を主体としていますの近世交易や交易を理解したければまずそちらを読むのをおすすめしておきます。もちろん、そちらを読まなくても今回のは上っ面だけならまずまず理解できると思います。

国富論自体は16〜18,19世紀までの近世交易を主体としている、と書きましたが要は近世交易とそれにまつわる経済活動、特に資本と工場(手工芸などの)についての論です。内容を書こうとしても全部網羅して行って戻って来ちゃってる感じ(一周)なので、読んだほうが早い、ということです。もちろん理解するにはそれなりに読まなければなりませんがそんなに内容は難しくはないのでぜひ読んでおくといいと思います。さて、肝心の結論ですが「交易の解釈には経済論が必要」、ということですが、当たり前ですね。難しくはないと思います。もともとアダム・スミスに始まる近代経済学は交易などを主体とする近世交易・経済を母体にしていますがやったことを解釈しているので、当たり前だと思います。ただ、それが経済活動にまつわるものなので、経済学と名前がついていますし実際に証明しているというか解き明かそうとしたことは経済モデルです(要は数理モデル)。解釈のみの解釈をしてしまった「21世紀の資本」はどうか、と先ほど書きましたが、経済論とは、交易などの経済活動に数理などの科学的モデルをつけた解釈の仕方、学問でもあるわけですが「経済論=交易などの経済活動に数理モデルなどをつけたもの」ということです。なぜそうなのか、といえば単純に「解釈には解釈が必要だから、適当に解釈をつけた」というだけの話で、他の学問の例にもれず解釈が解釈を作ってきた分野なのです。といっても、実際には数理モデルを使うから、学問というか科学になるわけです。というわけで、結論は「経済論は交易に解釈をつけたものだから交易には経済論が必要、というかワンセット」というわけです。これだけでは何にもなりませんが、解釈の仕方を考えるのが主な学問、なので実際はどう解釈するか、を考えていけばいいわけです。論理モデルはあとからついていくだけで、実際に交易をやってきた先人がどうのこうのとかどう解釈して、とかどうのこうのは置いておいて解釈を考えるのが、学問なのです。なので実際にこれという正しいものさしがあるわけではありません。こう書くと逃げのように思われるかもしれませんが、学問には解釈が必要。なので解釈を考えるのが学問。というふうになるのです。これだけでは訳が分からない、と思われるかもしれませんが交易にも解釈が必要だから経済論が必要、というわけなのです。逆に経済論を付けたから、といってすべてが分かるわけではありません。金融工学がもたらした経済の破綻は破壊的、ですしただ経済論だけ追い求めればいい、といえばそうではありません。実際、経済活動に経済論をつけたから、といってそれを追い求めてもたいしてなにも分からない、かもしれませんし実際アダム・スミスの場合も解釈をとりあえずつけておいた、だけなのです。それでも「国富論」は近世交易をまるまる理解できるだけの内容を含んでいますし近世の経済本では一番優秀なんじゃないか、ぐらいに思います。ただ、重要なのは、交易には解釈が必要だから経済論をつけた、の例にもあるとおり解釈が必要だから学問はあるのです。もちろん後世に科学を残しておく、という役割もあります。解釈うんぬんだけで決まってしまうほど学問は単純ではありませんが、基本的には学問は解釈を考えるもの、なのです。まぁ、経済学・経済論がどういうものかについては分かっていただけたと思いますが、学問には解釈が必要、なのです。なので交易にも経済論、という話になります。何だか循環論法のようになってしまいましたが、要は、解釈の存在を証明するには解釈だけでいい、ということなのです。唯識にも近いと思いますが視点の数だけ宇宙がある、解釈の数は無限大、だけど学問として残しておくためにはある程度まとまった解釈が必要、なので学問もあるし数理モデルによって作られる、のだと思います。まぁこれについては本文と関係ないのでこれで。

交易には経済論が必要、ということですが単純にモデルさえ作れればどんな論理も可能、というわけです。(逆にどんなことも正当化してしまう恐ろしさはあります。)そんなことはどうでもいいですが解釈だけでもモデルは作れる、というわけです。もともと数式自体、解釈を表しただけのものですし、解釈次第でいくらでもモデルは作れます。ただ、合理性があるかどうかはそのモデルが実際の物理にどれだけ近いか、で経済論では判断されると思いますので、どれだけ本当か、というとやはり数理モデルがあってちゃんと証明した場合に限る、ということなのでしょう。といっても、実際この稿でいっていることは交易などの経済活動には経済論が必要、ということだけですので解釈はどれだけでも作れる、ということなのです。逆に、そのなかから正しいモデルを証明するには数理モデルが必要不可欠、というだけで解釈はどれだけでも考えられる、のです。もちろん、これは例えばゲームの中などで交易のパターンなどを考える場合にでもそうですが、(ゲームの中だとゲーム理論による)数理モデルが必要なわけで(要は数学的な考え方)逆におつかいの金勘定でも一緒なわけです。どれが安いか、高いか、とか取引や駆け引きに関することはゲーム理論で取り扱っていますので、やはり経済学であり数学なのです。(もちろん経済学も数学の一部です。)何がいいたいか、といえば解釈はモデルで考えられる、ということで何か疑問に思うことがあれば、モデルを造ればいい、ということなのです。もちろん正しいかどうかは別として、モデルを造らないと論理は成立しない、のです。逆に一個人の思考であってもモデルは簡単に作れる、ということなのです。学問は常にモデルありき、なのです。


補足:分からないこともある、という人もいると思いますが関係ないことでも内容についてでも質問は受け付けています。
難しい経済学モデルについては、説明することができませんが簡単な、特にこの文章についてなどは解説できますので
ぜひ遠慮なくコメントしていただけると嬉しいです。では、これで。
posted by skywalker at 17:50| 愛知 ☔| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

DOLの話ですが

DOLでの話ですが、「アムス貿易振興組合」でバージニアに商会開拓街を造りました。
まだ何も決まっていませんが、まぁ他に人もいないので普通に街造りというか農場中心で
造りたいと思います。いつか街ができたときに、お立ち寄りの際はぜひ。(※ゲームの中での話です 笑)

余談
ネーデルラント(オランダ)の商人ということでニューアムステルダムのちょっと南の場所(バージニア)に
商会開拓街を造りました。実際は、北米オランダ領は17世紀か18世紀の半ば頃にイングランド領に占領・編入されています。
(詳しくはEuropaUniversalis W 参照)
なので、ニューアムステルダムといってもオランダが開拓したのは最初のほうで、後には北米イングランド領に編入されています。
ということで、北米で主要なポジションを占めたのはイギリス・フランス・スペインで他の国は見る影がないのです。もちろん、今挙げた例は
西側諸国で先住民もちゃんといて、しかも占領行為によって追い出しを食らったことを忘れてはいけません(もしくは虐殺)。
ポルトガルには南米、あるいはアフリカ・その前の時代までのアラブ・インドがありましたし、ネーデルラントは東インドと南米ガイアナ領などの〈植民地〉ですね。それがインドはポルトガルからイングランドに、東インドでもオランダ東インド会社の衰退を経てその後の列強にだんだんととって代わられていくわけです。まぁ、どうでもいいことですが占領・支配によって勢力を占めたとしても歴史の流れで常に移り変わっていくことは当たり前で宇宙の倫理なのです。一時的に力によって占領したとしてもまたその次には他にとって代わられるという運命が待っています。千里の道も一歩から、というかそうやって一時的な支配勢力が移り変わっていくことで世界や歴史は造られていくわけで、力の移り変わりというものは歴史の大きなひとつの要素なのです。もちろん、それらも歴史の時計の針のひとつに過ぎません。要素というものは、常に全体の流れの中で定義できるものであり、それらひとつひとつのみで定義できるわけではないのです。全体の中で要素がひとつひとつを形作っているわけですが、独立して定義できるものは何ひとつないのです。構造論みたいですが、端的に経済というものは全体の流れでできているのでひとつのものが独立して存在しているということはない、ということなのです。
posted by skywalker at 21:07| 愛知 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする